ある教会員の逝去の伴い、家族は墓を整え、何かよい墓碑銘を戴きたいと依頼してこられた。・・・墓碑銘を「平安」の二字にしましょう。あまりに平凡のようであるが、誠実にキリストの弟子として生きた故人の墓に、これほどふさわしいものはないと確認した。・・・主が復活されたからと言って、かえって不安を覚え、戸を閉ざしていた弟子たちを、主ご自身が訪ねられ、真ん中に立って言われた時、この言葉は永遠のいのちの重みを宿したのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、116頁
2020年4月17日(金)
平安という言葉は、ヘブルの言葉で「シャローム」。これはユダヤ人の日常の挨拶の言葉であり、こんばんは、とも訳せるそうです。そうすると、復活のイエスさまは不安のなかにある弟子たちのところに来て「こんばんは」と言われたと解釈することもできるのだと思います。あまりに平凡、あまりに日常の言葉です。しかしこの時主が語られると「永遠のいのちの重みを宿した」と加藤先生は記されました。
日常的に使ってきた言葉も、復活の主イエスさまが語られると、そこに永遠のいのちの重みを宿す、といことでしょう。聖書の言葉の一つ一つも、そこには永遠のいのちの重みがあるのだと思います。黙想の中でイエスさまご自身に語っていただくならば、その永遠のいのちの重みが鮮やかに輝くのだと思います。そんなみ言葉との出会いに日々満たされたいと思います。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(ヨハネ20・19)