若いときに聴いたある説教のなかで、後悔することと悔い改めることとは異なる、と改めて学んだ。後悔するということは、蛇がとぐろを巻くように、自分のなかへなかへと入り込んでいくだけである。そこには罪からの解放はない。悔い改めるとは、一直線に神のところへ帰ることである。自分の罪をはっきり認め、そのことを神に詫び、ひたすら赦しを乞いながら、しかもそれを信じて、父の神のふところに帰ることである。主の日ごとに、私たちはそれをしている。礼拝は何もよりも悔い改めである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、81頁
2020年3月14日(土)
悔い改めるということは方向変換であると聞いたことがあります。自分の方向を向いていた私たちが、向きを変えて、神さまの方向を向くのです。それが悔い改めるということである、ということです。
義であるとは神さまとの関係が正しいということであると教えられます。自分の正しさを追求するのではなく、そういうことは横に置いておいてひたすら神さまの方向を向き、神さまとの関係の正しを、神さまご自身が形づくって下さたことを喜ぶことである、それがキリスト教信仰である、と。
「神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。」(イザヤ55・7)