礼拝堂の正面に大きな十字架がかかっている。主の死を指し示している。その意味が告げられている。目覚めていても、眠っていても、主と共に生き得るために! 実際に眠っているときも、生きている。眠っているとき、私たちは何も知らない。それでも主と共に生きている。起きていても眠っているようなぼんやりしたときもある。そのときでも主と共に生きている。そして眠りは死を意味する。死においても、主と共に生きている。そうであれば、お互いに励ましあって生きるより他ないのではないか。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、72頁
2020年3月5日(木)
どんなときにも主イエスさまに生かさているので、お互いに励まし合い、お互いの向上に心がける以外に生きる道はない、ということです。イエスさまに生かされているということが分からなくなると、自分の力で生きなければならず、互いに励ましあったり、お互いの向上のために心がけることが難しくなります。
私は本当にそのことが分からなくなってしまうものだ、と思わされます。励ますどころか貶(けな)してしまうのです。お互いの向上どころか、足を引っぱろうとしてしまうのです。自分の力で生きなければならないと思い込んでしまっているからです。ああ、このような死のからだから誰が救ってくれるのでしょう。私のために死んで下さったお方、また復活して世の終わりまでともにいると言い切ってくださったお方、イエスさま以外におられません。
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(第1テサロニケ5・10-11)