冠をなげうって礼拝する天上の教会の姿

黙示録には何度も天上の礼拝の光景が語られる。・・・前面で展開される激しいドラマの背景に、あるいは、その上方に、そこにこそ私たちの目が注がれるべき天上の出来事を見させていただくのではなかろうか。・・・過去、現在、将来のすべての時を貫いて生きて働く主なる全能の神を、冠をなげうって礼拝する天上の教会の姿が、殉教の危機のなかで歌い続けた地上の教会をどれほど支えたことであろうか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、33頁

2020年1月28日(火)

キリスト者は、つねに天上に目を向け、そこに繰り広げられている礼拝の姿を見ています。その天上の礼拝の姿を見ることによって、地上の歩が支えられています。

「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。』玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。『主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。』」(黙示録4・8-11)