その日、国語の時間の宿題にハインリヒ・ハイネの詩を暗唱していかなければならなかった。・・・「シュレージェンの織物工たち」の第二節、「祈り続けてきた神を今は呪う・・・」。この言葉を少年は口にしなかった。・・・たとえ学校の宿題であっても、神をけがすことはどうしてもできない。それがこの少年のからだにまで染みついた信仰であった。私は襟を正して母の言葉を聞いた。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、29頁
2020年1月24日(金)
信仰はからだに染みつくものである、ということでしょう。からだに染みついていなければ、いざという時に信仰の道を選択することができないのだと思います。これは旧・東ドイツでのことですが、いまも共産主義の国や軍事政権の国では、神さまを否定する教育が行われているのでしょうか。信仰がからだに染みついている人びとの闘いがあるのだと思い、その兄弟姉妹のために祈りたいと思います。また信仰の自由が保障されている私たちの国においても同様の闘いがないわけではありません。襟を正して信仰の道を選択したいと思います。
信仰がからだに染みつくこと。それは日々のデボーション、主日ごとの礼拝によって形づくられるものです。
バイクでの低速走行やコーナーでの安定した曲がり方など、クラッチ操作、ブレーキ操作はにわかには身につきません。繰り返しの練習が必要です。ただやみくもに練習をしても上達はむずかしいものです。一所懸命に学びつつ、繰り返すのです。乗り始めてようやく五千キロになろうとしていますが、ようやくスムーズな発進と停止のコツがつかめてきたような気がします。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト20・7)