祈りの瞬間は私にとって

祈りの瞬間は私にとって――と言うか、私の場合その条件として――この現実の世界とこの現実の自己は根底的な現実なのではないという意識、再意識をはらんでいます。
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祈りの場合に限って、この真の私は私という本来の存在から語ろうと努力し、他の演技者ではなく、神に――私たちすべてを創造した、劇の作者に語りかけようと努力するのです。
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祈りは時間と空間からの逃避、もろもろの客体と向いあっている主体としての被造物特有の立場からの逃避の試みではありません。・・・そうした自分自身の状況についての意識をあらたに目覚めさせようとする試みです。もしもそれが可能なら、他のどこにもおもむく必要はありません。その状況そのものがあらゆる瞬間において神の顕現の場です。
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神御自身だけが私たちのなかの深みへと釣瓶を下ろして下さるのです。その一方で、神はたえず偶像破壊者の役割をつとめたまわねばなりません。私たちの描く神についての概念を、神はその慈愛において、そのつど、打ち砕きたまわねばならないのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、456-457頁

2019年11月21日(木)

私たちは神さまによって造られたものです。その造られたものであることを思い起させてくれるもの、それが祈りである、といいます。そしてその祈りそのものも神さまの御手の中にあるというのです。そのような祈りを人生の中に取り戻すことができれば、どのようなところにあってもそこが神の国となります。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6・33)