祈りの相手である神との人格的関係から

神はつねに私たちの祈りを聞き、ときには願いをかなえて下さるという確信(そうした確信が得られればですが)、さらに、願いがかなえられたと見えるときの、これはけっして偶然でないという確信にしても、やはり祈りの相手である神との人格的関係から、神がどんな方であるかを私たちがよく知っていることから生じるのです。ですから、祈りの成功例と失敗例を表にして成功例が、偶然ということでは説明がつなぬほど多いかどうか、判定するなどということは論外です。
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<祈りに効果があるか?>という問いからして、私たちの心構えを誤らせるのです。<効果があるか?>とは、まるで魔法か、機械か、自動的に機能するものについて語っているように聞こえます。
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神は何よりも祈りにおいて御自身を私たちに明らかになさいます。神が祈りに応えて下さるというのは、そうした啓示から生ずる当然の帰結ですが、必ずしも最も重要な帰結ではありません。神がなさること、それは神がどういう方であるかということから知られるのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、449-450頁

2019年11月16日(土)

神さまの御心にかなうことを願う、ということ。これは神さまとの人格的な交わりをいただいている者だけができることでしょう。神さまに対する確信は、このような祈りの交わり、人格的な交わりの中において育まれるのです。

第1ヨハネ5章14節の言葉は、新改訳聖書では「神の御心にしたがって」と訳されています。願い方において御心にかなっているかが大切である、という意味にとれます。これに対して新共同訳では「神の御心にかなうことを」と訳されています。願い自体が神さまの御心にかなっているかどうかが問われているように思えます。どちらが聖書の本意なのでしょうか。おそらくどちらにも大切な意味があるのでしょう。要は神さまのとの人格的な交わりがあるかどうかですから。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(第1ヨハネ5・14)