まったくのところ、超自然的な神の存在に対して理解を示しながら、この神が創造者であることを否定する人はめったにいません。
・・・
創世記の物語は、聖ヒエロニムスがその昔言ったように、民衆詩人の語り口で、というより民話の形で語られているからです。・・・この物語のうちには、厳密な意味における創造の概念が残りなく盛られているのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、381-382頁
2019年9月30日(月)
こんにち科学の時代に生きる私たちが、そのフィルターで創世記を読むとき、誤ってしまう読み方として、科学の教科書として読んでしまう読み方があるのではないか、と思います。聖書を書いた者も、それを最初に呼んだ者も、ともに今日の科学的な知識を持ってはいなかったでしょう。ということは、その時代の言葉として書かれていることをわきまえて読まなければならないということです。そのうえで聖書の語る真理を読み説かなければなりません。ルイスは民衆詩人の語り口、あるいは民話の形で語られているといいますが、そうであればそのように読まなければ読み誤ってしまうということでしょう。
この世界にあるすべてのものは、何ものかに依存しなければ存在することができません。にもかかわらず存在しているということは、すべてのものの第一原因が存在することは明らかです。聖書はその第一原因が神であり、その神が創造したすべてのものを愛していると語ります。ですからすべてのものは、この神の愛の中にいるかぎり、善と幸福の中に存在し得るのです。ただ愛が成り立つためには、自由意志が前提とされなければなりません。罪とはこの自由意志の濫用です。自由意志を濫用して神に逆らう道を選択したことが罪なのです。もう一度神に従う道を、神ご自身が全うし完成してくださいました。それがイエス・キリストです。このイエス・キリストに信頼する時、罪びとは、ふたたびエデンの園に生きるものとなります。新しい創造がそこにあります。
ところで本日の個所に聖ヒエロニムスが登場するのは、きょうが聖ヒエロニムスの日だからです。
「あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。これほど大いなることがかつて起こったであろうか。あるいは、そのようなことを聞いたことがあろうか。」(申命記4・32)