新約聖書においては、独創性が神お一人の特権であることはきわめて明白です。三位一体の神という概念のうちにおいてさえも、独創性は父なる神に限られているようです。
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人間の運命は、それとは正反対の方向を指向しているように思われます。すなわち、できるかぎり自分自身を消し去ること、自分のものでない、借用しているものである香りを身につける、自分のものでない、べつな顔が映る、澄んだ鏡となる方向を目指しているような気がするのです。
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こう言ったからといって私は、人間の全的堕落説を唱えているわけではありません。新約聖書がそうした説を支持しているとも、私は考えていません。私はただ、被造物の最高善は被造物にふさわしい善、すなわち派生的な者、反映する者としての善であらねばならないと言っているのです。アウグスティヌスが言明しているように、誇りは堕罪のまえにあるばかりでなく、堕罪そのものです。それはよりよきもの、すなわち神から注意をそらせ、悪しきもの、すなわち自己自身に目を注ぐことなのですから。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、334-335頁
2019年8月26日(月)
自己自身に目を注ぐということが問題なのです。それを自分のことを棚に上げることとは違うことであるはずです。本当の意味で正しく自己に目を注ぐことなのだと思います。
「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」(創世記3・4,5)
「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4・22-24)