御自身が愛そのものでありたもうからこそ

神が人間のために死なれたのは、人間のうちに何らかの価値を認めたもうたからではないのです。
・・・
聖パウロが書いているように、価値ある人のために死ぬことは、確かに英雄的行為でしょう。けれども神は、罪人のために死んで下さったのです。神は人間が愛するに値するからでなく、御自身が愛そのものでありたもうからこそ、私たちを愛して下さるのです。神は万人をひとしく愛して下さっているのかもしれません。・・・平等ということがあるとするなら、それは神の愛のうちにあるのであって、私たちのうちにあるのではありません。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、284-285頁

2019年7月20日(土)

キリストの十字架においてあらわされていることは、以下の2点です。

  1. 私たちの罪は、神のいのちによってしか、救うことのできないほど、大きく深いものである。

  2. 神は、御自身のいのちをささげてまで、私たちを救いたいと願われた。

ここの神さまの愛が示されています。

キリストの十字架によって、神さまが限りない愛をもって私たちを愛しておられることが明らかになったのですが、それは私たちの側に愛すべき理由があったからではなく、ひたすら神さまの側に愛すべき理由があったからです。その理由とは、神さまは愛そのものである、ということです。愛そのものである神さまなので、十字架にかからざるを得なかったということでしょう。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5・8)