十九世紀になってはじめて私たちは、芸術の犯しがたい品位というものに心づくようになり、文学や芸術について真剣に考えるようになったのです・・・しかしその結果はますます少数の人しか読んだり、聞いたり、見たりしたがらないような高踏的な作品にもっぱら重きをおく芸術的、文学的傾向が排除されるという形で表われたようで、つくりだす者も楽しむ者もともに半ば恥じているような、低俗な作品ばかりが生れました・・・人生の現実を伝えはするが芸術的にはけっして最高とはいえぬ作品を過大評価することによって、私たちは美的価値そのものを失いかけているのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、279-280頁
2019年7月16日(火)
芸術作品は、何かの目的のためにつくられてきました。しかし現代、芸術そのものを目的とする時代を迎えています。もちろん何かを目的とする作品もつくられてはいますが。
芸術そのものに目的や価値を置く時代を迎えて、ルイスは「高踏的にもっぱら重きを置く芸術的、文学的傾向が排除されるという形」の作品が表われるようになった、それは「低俗な作品ばかり」が生まれるようになった、といいます。
具象においても抽象においても、美しいといことが大切なのだと思います。伝統的な芸術であっても、現代的な芸術であっても、美しいということではないならば、どうなのでしょう。
聖書にはたびたび美しいという言葉が出てきます。下記は旧約聖書エステル記の一節です。ペルシャに生きたユダヤ人女性エステルを見て人々は、彼女を美しいと思いました。その美しさは、彼女の心にある信仰と、その発露である人生が、かたちづくっているものではないかと思います。美しいものに感動する心は、生まれつきもっているものでありつつ、学び形成されていくものでもあります。
信仰に生きるということは、まことに美しいお方である三位一体の神さまを信じるということです。信仰によってまことに美しいものを学ぶのです。
「モルデカイの伯父アビハイルの娘で、モルデカイに娘として引き取られていたエステルにも、王のもとに召される順番が回ってきたが、エステルは後宮の監督、宦官ヘガイの勧めるもの以外に、何も望まなかった。エステルを見る人は皆、彼女を美しいと思った。」(エステル2・15)