復活を宣べ伝えること

初代キリスト教の時代、使徒とは何よりも復活を目のあたりに見た人々でした。
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キリスト教を宣べ伝えるということは、もともと復活を宣べ伝えることであったのです・・・私たちが<福音書>と呼んでいるもの、すなわち主イエス・キリストの生涯と死の記録は、すでに福音を受けいれている人々のために、後に編纂されたものです。
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キリストの語られた言葉を福音書のうちから選びだしてそれを基本的な資料とみなし、新約聖書の他の部分をその上に打ち立てられたものと考えるのは、まったく非歴史的な姿勢です。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、191-2頁

2019年5月14日(火)

罪の赦しの十字架を中心に宣べ伝えることとなってしまった西側のキリスト教の流れの中にあるプロテスタントは、復活についてどれだけ宣べ伝えることができているのだろうかとあらためて考えさせられます。聖書は十字架とともに復活を宣べ伝えています。あるいは復活こそ宣べ伝えるべきことであるのだと思います。

ところでこの本の今日のところの表題に「使徒マタイ」とあります。これはおそらく「使徒マッティア」のことだと思います。12弟子のひとりでもと取税人であったマタイではなく、イスカリオテのユダの死によってできた欠員を補充するためにくじで選ばれたマッティアのこと、だと思うのですが、いかがでしょうか。今日5月14日は「聖マチア使徒」の日ですから。

「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。」(ルカ1・1-3)
「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(使徒2・32)