花が球根と、寺院が建築家の設計図と異なっているような意味の相違

私たちはやがて天使のごとくになり、<われらの主に似たもの>に変えられるでしょうが、これはあくまでも人間にふさわしい意味で似るということでしょう。ちょうど異なった楽器が同じ旋律を、おのおののやりかたで奏でるように。
復活した人々の生が、どの程度感覚的なものであるか、それは私たちにはわかりません。けれどもそれは、この地上で私たちが知っている感覚的な生とはおそらく異なっているでしょうが、空虚が水と、水が葡萄酒と異なっているといった意味で異なっているのではありません。それは花が球根と、寺院が建築家の設計図と異なっているような意味の相違でしょう。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、167-9頁

2019年4月28日(日)

地上のからだと復活のからだとの連続性と非連続性について。それは花と球根のようなものであるといいます。全く別のものであるのかというとそうではないし、全く同じものかというとそうでもない、ということでしょう。
ですから私たちは復活のからだを想像しながら、喜びをもって待ち望んでいます。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(第1ペトロ1・3,4)