抑制を加えるべきもの

人が何らかの意味で幸福であろうとするならば、この世においてさえ、多くの抑制が必要です。したがって欲望が強いときに、これは健康であり、正当なのだから許されてよいといった主張は成り立ちません。
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真の衝突はキリスト教と<自然の性情>の間にあるのではなく、自然の性情の抑制に関するキリスト教の原理と、これに相反する他のもろもろの原理との間にあるのです。なぜなら、人間の自然的欲望という意味合いの自然は、私たちが自分の人生を破壊させてしまいたくないなら、いずれにしろ、抑制を加えるべきものだからです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、126f頁

2019年3月30日(土)

欲望は神さまが与えてくださった大切なことの一つです。しかしそれは欲望を抑制する必要がないということではありません。
エデンの園で、園の中央の木は、自らを抑制するための恵みの木でした。何一つ不自由のない所において、唯一神さまを覚えることのできる木だったのです。人間であることを確かにすることのできる木だったのです。人間は人間以外のものになってしまっては幸福も何もありません。

「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。」(2ペトロ1・4)