修練の過程の完成

キリスト教を信じない人たちは、このような褒美の約束を引合いに出してキリスト教だって一種のご利益宗教ではないかと非難するでそうが、心配するにはおよばないと思います。
同じく褒美と言っても、ピンからキリまであります。褒美を求めてする行為でも、褒美がそれと自然的な関連のまったくない場合、またそれらに必然的に伴う願望とまったく無縁な場合があるのです。
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神を仰ぎ見ることにおいて永遠の生命を獲ちえた人々は、それが賄賂のたぐいではなく、彼らの地上における修練の過程の完成にほかならないということを承知しているに違いありません。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、112ff頁

2019年3月20日(水)

永遠の命は、死んだ後にやって来るものではありますが、それ自体を目的にして人生を歩もうとすると、人生はすべて永遠の命への道具となり、人生自体に目的が見出せなくなる可能性があります。
人生はそれ自体に目的があるものでもあると思います。イエスさまは父の命令そのものが永遠の命であるといわれました。聖書のことばに従って生きていること、そのこと自体がすでに永遠の命に生きていることなのだ、ということでしょう。
たしかに人生そのものが、尽きることのない命に満ち溢れているならば、何と幸いなことでしょう。キリスト教はそのような人生を私たちに与えるのです。

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」(ヨハネ6・47)
「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」(ヨハネ12・50)
「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」(ローマ2・7,8)