人間が道徳的決断を下すとき、そこには二つのことが含まれます。一つは選択という行為であり、もう一つは当人の心理構造から生みだされる、さまざまな感情、衝動、その他で、いわば選択の素材となるものです。
さてこの素材には、二つの種類が考えられます。一つは正常と言われるもの、つまりすべての人に共通するたぐいの感情から成り立っています。もう一つは、当人の潜在意識のうちでゆがんでしまったものに起因する、不自然な感情から成るものです・・・精神分析が手掛ける仕事は、こうした正常でない感情を取り除くこと、すなわち選択の行為のためのよりよい素材を提供することです。一方、道徳は、選択の行為そのものにかかわることなのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、100f頁
2019年3月10日(日)
罪を犯したときの責任能力を考えると、そうせざるを得ない状態の中で犯された罪については、いっぱんてきには責任能力を問うことが出来ないのだと思います。しかし罪を犯さなくてもよい自由のある中で、罪をおかしてしまったということについては、その責任能力を問い、罪に対する罰を課すこと、あるいは罪を償うことをしなければなりません。
しかしこの両者の区別は、そう簡単なことではないように思います。
「悪なるものと闘えるのはなにか?・・・それを善であると私たちは考えがちだけれども、善ではなく聖なるものなのではないか」(若松英輔、山本芳久、『キリスト教講義』、文藝春秋、2018年12月15日発行、214頁)
聖なるお方のまえに自らを問うことなしに、責任能力を考えることは難しいのだと思います。
「更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。』」(マルコ7・20-23)
「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ローマ13・13,14)