私が理解するかぎりでは、キリスト教は必ずしも宇宙の中心は人間だとする見方を取っていません。・・・ヨブ記ほど、人間を万物の尺度とすることに対して厳しく警告している文学は稀です。・・・神が人間を愛して下さっているということ、人間のために人のかたちを取って死んで下さったということは、キリスト教の本質に違いありません。しかしだからといってそれは、人間が自然の唯一の目的だということを証明するものではありません。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、61f頁
2019年2月10日(日)
人間が中心であるとする錯覚の中にある限り人間に幸いはやって来ないのです。
私が中心であるとする錯覚の中にある限り私に幸いはやって来ないのです。
人間はそもそも中心ではないにもかかわらず、そこに神さまの愛が向けられていることの不思議。その不思議に気付いていくことが信仰ではないかと思います。
「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。/人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。」(詩編144・3~4)