聖霊をわれらに来たらしめてください。

聖霊をわれらに来たらしめてください。

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われらは弱いのです。主よ、われらを助けてください! 祝福してください! あなたに従うことをよろこび、イエス・キリストにあって恵みを受けようとする者たちの心に、み国を建ててください。

C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、21頁

〔御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。〕(ローマ8章26節)

神学校で学んでいた時、週に一度行われるあるときの礼拝で、いつ終わるとも知れない説教がなされました。いつもは30分ほどで終わるのですが、そのときは1時間を超えるようなことだったのではないかと記憶しています。そのあとで誰かが評して「聖霊に導かれるままでしたね」と批判とも称賛ともどちらとも受け取れない言葉を語っていました。

聖霊に導かれる、聖霊の支配の中にあるというのはそういうことでしょうか。気分のままにその時に思いついたことを無批判に言動にするということが聖霊に導かれるということでしょうか。

聖霊に導かれるとは弱い私が神さまに従うことを喜びとするということです。そうしてこの地に神さまの御国が前進することです。そのために神さまはこの地に教会をお建てになりました。そうすると聖霊導かれるということは、神さまがお建てになったそれぞれの教会に「従う」ということでしょう。さらに私たちは使徒信条で「公同の教会を信ず」と告白します。公に同じである教会を信じます、ということですから、自分が所属している教会も絶対ではないということを告白します。教会も「群れ」のの中にあってはじめて健康な教会であり続けることが出来ます。自己中心の独りよがりで、その場の思い付きの歩みは、聖霊に導かれて生きる生き方とは、正反対の歩みなのです。

私たちは弱いものです。しかしその弱い私たちを弱さのままに受け入れてくださり、造り変えて新しくしてくださる三位一体の神さまがおられます。三位一体の神さまのひとりである聖霊さまに導かれて今日も歩みたいと思います。