「我等若し愛して人を清うせんと欲せば、先ず宜しく中心より謙りて偕に其足を洗ふべし。然り誠に信じて洗を受け、且つ人に快心を与へんと欲せば、宜しく愛して其足を洗ふべし。毎旦目を挙げて父母に見謝する如く、毎夕兄弟其足を洗ふべし。此の事にして誠に其愛より出づれば、其余は則ち自ら至るべし。是れ吾人が程度に於て実地に授受する洗礼なり。」
新井奥邃、『聖言』、228
「私たちがもし愛をもって隣人を清くしたいと願うならば、まず心から謙遜をもってともにその足を洗わなければならない。ほんとうに信じて洗礼を受け、かつ隣人に祝福を与えたいと願うならば、愛をもってその足をあらうことである。毎朝に両親の前に出て挨拶をするように、毎夕に兄弟の足を洗うべきである。心底愛からの行動であるならば、その目標は必ず達成されるであろう。これは信仰者がそれぞれの程度に応じて授けられる洗礼である。」
洗礼はとても大切な式です。しかし洗礼を受けたからといって自動的に清く愛深いキリスト者になったり、隣人をそのように導くことができるわけではありません。謙遜と愛をもって生きる道を選択することが大切です。そのような道を選択し、謙遜と愛の道に前進しようと踏み出す一歩。それが信仰生活における実際の洗礼ということができるでしょう。
〔聖書の個所〕
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
(ローマ2章28,29節)
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