「神は誠に至近に在ます。道豈遠からんや。真神誠に茲に在す。我若し我が固心を破りて之を去らば、無我(即ち内天国)に入り神其中に游観せらる。乃ち我が身是れ神の家となるなり。我が学の勉むる所は此に到るを勉むなり。」
新井奥邃、『聖言』、223
「神はまことに近くにおられます。道がどうして遠いことがあるだろうか。神は真実にまことにここに存在しておられる。自分自身がもし自分のかたくなな心を破壊し去らせてしまうならば、我を無にする所(すなわち内面的な天国)に入ることができ、神はその中に自由に見ることができ体験することができるであろう。すなわち自分自身のからだが神の家となるのである。我々が勉学に励むのは、ひたすらこれに到るためである。」
神さまはつねに近くにおられます。しかし自分の心の目が曇っているので、神さまのおられることを体験することができません。目の曇りを取り除くためには、無我に入らなければなりません。無我とは自己中心からの解放であり、私利私欲から自由にされることです。そのような心の状況に生きるならば、神さまを自由に体験することができるのです。信仰の学び、あるいは人生の学びの最終的な目標はここに在ります。
〔聖書の個所〕
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイ1章23節)
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ28章20節)
コメントを残す