「凡(およ)そ人の危険は其譏(そし)らるる時よりも、其誉めらるる時に在り。宜しく謹しむべし。譏らるる時に反して、誉めらるる時は人の通情として自ら許し易し。因りて以て自慢するまでに至らざるも、亦自ら恃まんとする恐れあり。是れ誉は誘惑の本たり。此間尤も警醒を要す。」
新井奥邃、『聖言』、176
「大体において人の危険は、その人がそしられる時よりも、その人がほめられる時に存在する。しっかりと謹まなければならない。そしられる時に対して、ほめられる時というのは人の人情として自らを許してしまいやすい。これによって自慢するまでは至らないにしても、自分自身に由り頼もうとするおそれがある。このように誉れは誘惑の根本である。このような時には十分に警戒し覚醒することが要求される。」
人にほめられることはうれしいことです。逆にそしられたりけなされたりしたらがっかりします。ですから自分が誰かをほめることはよいことであると思います。しかし自分がほめられた時には用心しなければなりません。人間は高慢になって、自分の本当の姿を見失ってしまいがちなのです。またほめられる喜びは時に誘惑となります。ほめられたいがために語る言葉、行う行動は、結局自分自身を縛ることになります。相手に縛られることになります。
ですからそしられた時には襟を正して、よりよい歩みに努力する時とし、ほめられた時には、これもまた襟を正し、自分の身を引き締める時としましょう。
〔聖書の個所〕
「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。・・自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。・・また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。
(第1テモテ3章1~7節)
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