「夫れ真人の此の世に於けるや陰顕出没測るべからず。即ち陰中に顕出して顕中に陰影せらる。時に或は囚者と倶に獄中在らん、或は貧者窮者と其の困苦を同うせられん歟。病人には病人と共に、罪人には罪人と共に、其の同情の姿は一定ならざるも、皆之が為に労せられざるはなし。皆無限なる救贖の道に於て働く。」
新井奥邃、『聖言』、69
「真実に神の人がこの世において見え隠れしたり現れたり隠れたりすることを、予測してはいけない。言いかえれば、隠れている中に現れていたと思えば、現れている中に隠れていたりする。あるときには、囚人たちと共に獄中にいる、あるいは貧しく困窮している人びとともにいてその困苦を同じにしているようだ。病人には病人と共に、罪人には罪人と共に、その憐れみの姿は一定ではないにしても、みなこれ(憐れみ)を目標としていないものはいない。みな限りない救い、贖いの道において労している。」
大なり小なり憐れみの心をもって労する人々によってこの世界は成り立っています。自分の目から見て、まさに神の人のようであるというような思いで、測定してはいけないし、また測定できるものではないのです。
見える姿にはいろいろあるかもしれませんが、隣人への愛と憐れみによって労する人びとはいろいろなところにおられます。みな無限の神さまの愛、救いの中に労しています。
〔聖書の個所〕
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
(マタイ10章42節)
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
(ルカ10章36節)
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