「蓋し愛は能く人を知り、能く物を観る。苟も愛に非れば、智者と雖も人を知る能はず、愛は又能く教へを為す。愛に非れば教ふる能はず、又教へを受くる能はず。」

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「蓋し愛は能く人を知り、能く物を観る。苟も愛に非れば、智者と雖も人を知る能はず、愛は又能く教へを為す。愛に非れば教ふる能はず、又教へを受くる能はず。」

新井奥邃、『聖言』、63

「おもうに愛は人をよく知ることができ、物事をよくみることができる。もしも愛がないならば、いかに知恵者といえども、人を知ることは出来ない。また愛はよく教えを為すことができる。愛がないならば教えることは出来ない。また教えを受けることもできない。」

 「知る」ということはどういうことでしょうか。
 バイク好きの青年はバイクの事をよく知っています。それはバイクへの「愛?」があるからです。バイクへの愛がバイクの事をもっとよく知ろうとする力になり、そうして得たバイクへの知識がバイクへのさらなる愛を生み出します。バイクへの愛のない人がバイクを知ろうとしても、バイクの機械的な仕組みやその危険性を知識として頭に入れることができるかもしれませんが、それは「知る」こととは少し違ったことでしょう。
 バイクという「物」に対してがそうであるように、人間に対してはさらに愛と知るということとは深い結びつきがあります。恋人の事をよく知りたいと思います。そうして愛が深まり、またその愛がさらに深く知りたいという願いを生み出します。一人の人物に対して憎しみをいただいている人がその人を知ることと、愛情を持っている人がその人を知ることとは、その中身はまったく違ったものでしょう。
 愛は盲目とも言いますが、その愛はここで言われている愛とはまた別のものです。聖書の語る真実に愛は、情熱と共に冷静さ、客観性を持っています。真実の愛は破壊ではなく常に建設に向かうものだからです。おおよそ破壊に向かうものは愛に見えてもその実態は愛ではありません。
 この真実の愛を持っているならば、他者をより正しく知り、また見ることができ、そして教えることができます。
 また教えられるほうも、自分を教えてくれる人への愛を持っている者がよりよく教えられることができます。誰も自分が憎しみをいだいている人から教えを受けたいなどとは思わないでしょう。知識や技術は多少は教えを受けることができるかもしれませんが、わずかの事に留まるでしょう。教える立場にある者は、自分自身が愛される者、尊敬される者となる努力が必要です。
 愛されるものになる秘訣は、一つです。まず自分自身が自分の事を愛するのです。自分さえも愛さないような自分を、いったいだれが愛してくれるでしょうか。世界の誰もが愛さないような自分だったとしても、自分だけは愛してあげましょう。そこから愛される者への道が始まります。

〔聖書の個所〕

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、,あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。(ピリピ1章9~10節)

神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
(第1テサロニケ1章4節)

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
(第1ペテロ4章8節)

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