「主を知るの道は他なし。十字架を我が心と身とに負ふて主に従ふに在るなり。十字架とは何ぞや、主の死生なり。其声に曰く。『嗚呼我が神よ、爾何ぞ我を遺てたるや』と。是れ十字架の死生なり。即ち我が主の在しし所、至誠の大苦なり。之れ奮振天の基礎たり。吾人小子等亦各々其の程度に従って此の死生の実地を践み、之を体し之を貫いて以て昇るべし。然らずんば如何に書を読み学を講ずるも、断じてキリストを知る能はざるなり。」
新井奥邃、『聖言』、41
「主イエスを知る道はほかにはない。十字架を私の心と身とに負って主に従う所にのみある。十字架と何だろうか。それは主の死であり生である。主は十字架上で『ああ、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか』と言われた。すなわちわが主は、誠に大きな苦しみの所に立ってくださったのだ。これは天の基礎が奮え揺れ動いたことである。私たち、子どもらはまたそれぞれその程度に従って、このような死と生を実際に経験し、身につけ、やり通して高みに登ろう。そうしない限り、いかに本を読み、学問を解き明かしたとしても、決してキリストを知ることができない。」
キリストの十字架は、神が真の苦しみを経験してくださったということです。主の経験してくださった真の苦しみとは、肉体の苦しみ、精神の苦しみ、霊的な苦しみ、この三つです。鞭打たれ、十字架にかかることによる肉体的な苦しみ。弟子たちに裏切られ、人びとにあざけられる精神的な苦しみ。そして父なる神さまに見捨てられるという霊的な苦しみ。私たちもさまざまな苦しみに出会いますが、すべて主はご存知なのです。
私たちがそれぞれなりに苦しみや試練、すなわちそれぞれの十字架を負う時、主の苦しみの一端を知り、主が私のためにどんなに愛してくださったかを知るのです。そうして主ご自身を知るのです。
〔聖書の個所〕
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
(マタイ10章38~40節)
そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
(マルコ15章21節)
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
(ルカ9章23節)
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