「宗教は、有神に生れて、無我において長ず。大にして容れざるなく、小にして至らざるなし。亦霊妙の体なり。」
新井奥邃、『聖言』、22
「宗教や信仰は、神の存在を認めることにおいて生まれ、我を無にすることにおて成長する。そうすれば大きすぎて入らないこともなく、小さすぎて至らないということもないであろう。それは人知でははかり知ることのできない姿である。」
信仰というものは、超越した絶対者を信じることによって生まれます。そうして生まれた者の中にはいつの間にか自分自身が神さまのようになってしまい、他の人びとを支配してしまおうとする宗教があります。90年代に社会問題となった宗教もそのような有様でした。しかし真の信仰は、自分自身が無になっていくことによって成長していくのです。そうすれば人間として健やかな存在になり、周りにも健やかな影響を与えていくでしょう。そのような姿は、人間業ではなく、やはり超越した絶対者によって造られていくのです。またそのような姿こそ、神さまの栄光そのものです。そのような姿にされることを「聖化」とか「栄化」とか言ったりするようです。これは決して人間が神になるということではなく、謙遜の限りを尽くすところにある輝きとでもいえるでしょうか。
〔聖書の個所〕
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(第2コリント3章18節)
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