第三帝国の終焉についてスイス人は

執筆者:

カテゴリ:

〔ドイツの降伏〕

2015年5月8日(金)

一瞬なりとはいえ、この救いはないけれども、未曽有でもある実り豊かな状況を、ほとんど羨望を抱いて考えたくはありませんか。民族全体に、もう一度最初から始める機会が提供されるということは、そうたびたび起こることとは思えません。始めることが許されている! それが利用できたら、何という使命と可能性でしょう! この民族が今その機会を得ることは、99人の義人の目前では何という稀な表彰でしょう!

私たちはドイツ人のようにそう高く思い上がったことはない、だから明らかに今やそんなに深く転落しなかった。幸いなことに! しかしまさにそれゆえに私たちにはこのような機会も提供されていません。

                                 カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
   小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、262f。

戦争に負けた国が、戦争に勝った国々に裁かれます。それは裁きの時であるとともに、新しい出発の時でもあります。
誰かが裁かれる姿を、私たちはどのように見ているでしょう。
こんにちもたくさんの犯罪が行なわれ、その犯罪が国家権力などでストップせられ、裁判が行われています。裁かれて、罰が下されます。それは犯罪者にとってさまざまな意味で新しい出発の時でもあります。
私たちはそれらを見てどのように思っているでしょう。
自分はあのような犯罪は犯さない、あのような犯罪人になることはない、あのような犯罪を犯す人は特別な人である、自分とは関係がない、と見ているでしょうか。
そうであれば、確かに裁きや罰といったこととは遠く離れているのかもしれませんが、同時に新しい出発の時も私たちにはありません。

誰かが裁かれる姿を見て、もしかすると私も裁かれるものであったかもしれない、私も犯罪を犯していたかもしれない、あの裁かれている人は、私と遠く離れた存在ではない、と考えるならば、私にも常に新しい出発があるのです。

(祈り)
神さま、自らが罪びとであり裁かれて当然の者であることを、教えてください。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA