〔舟の上で〕
2015年2月5日(木)イエスは彼らの主で救済者であられただけでなく、彼らにもご自分をこのような者として示されました。イエスは彼らに平静さを与えました。「すっかり静かになった」。彼らのそのように揺れ動く信仰に、不動の基盤としてご自分を明らかにされました。
この物語は、「彼らは非常に恐れた」という確認をして、忘れ難く終わります。これは何だったのでしょうか。思い出されるのは、女性たちが、甦られた方の空(から)の墓を目の当たりにして、震え上がり正気を失って、誰にも見た事について敢えて話さなかった様子です。「彼女らは恐ろしかったからである」。ベツレヘムの羊飼いたちも思い起こされます。彼らは非常に恐れた。ー知恵の始まりとして、小さな不必要な恐れが過ぎ去ったことと同時に始まったのは、主に対する大きな、必然的な本当の畏れでした。
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実際、「一体この方はどなたなのか」。教会はこれ以上により良いことをなしえたでしょうか。・・・まさに教会が、世界の光となり光であったのは、イエスを世界の出来事の只中で、その主として自らを示された方として認識することにより、この恐れの中に身を移されたことにありました。それがこの船旅で生じた決定的出来事でした。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、88f。
不必要な小さな恐れから、イエスさまへの必然的な大きな畏れが生じます。
不必要な小さな恐れは、イエスさまへの必然的な大きな畏れをいただくための始まりです。
今私たちが様々な形でいただいている恐れは、不必要な小さな恐れなのです。そしてその不必要な小さな恐れは、イエスさまがともにいてくださるという、ただその一点において、いつか必ず、イエスさまへの必然的な大きな畏れになるのです。
(祈り)
神さま、今起こっている様々な恐れの先に、あなたへの確かな畏れがあることを信じることができるように、まことの平安を与えてください。
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