現実の人間と世界の側に立つ神

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〔神の愛と教会の務め〕

2014年11月11日(火)

神は、この世と人間のことで神に訴えてくる者の側に立たず、むしろ現実の人間と、現実のこの世の側に立つ。その結果、神はこの人間、この世界と共に訴えられることとなる。すなわち、審判者が被告となるのである。
・・・
「神が人となる」という出来事の前では、良い人間の人間軽蔑も、独裁者の人間軽蔑も、同様に、存在し続けることができないのである。
・・・
現実の人間を知り、その人間が軽蔑すべきものではないということを知るのは、ただ、人となった神を通してのみ可能になることである。人間に対する神の愛の根拠は、人間の中にはなく、神ご自身の中にのみあるのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、557f。

人間は弱く、自己中心的で、罪人です。そのような人間の所に立ってくださったのが主イエスさまです。「神が人となられた」ということは、罪人である人間を唯一裁くことのできるお方が、裁かれる側に立ってくださったということです。
裁くのは誰か。それは時に、自分の正しさにしがみついている善良な人であり、また独裁者です。

キリスト者の中に、この善良な人と独裁者が、時々おられます。
キリストの側に立っていると思っておられるのですが、逆にキリストを裁く側に立っておられるなあ、と感ぜずにはおれない方もおられます。私自身もそのような時があるなあ、と振り返ります。

常に、イエスさまの所におらせていただきたいと思います。

(祈り)
神さま、いつもあなたのところにおらせてください。

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