九十九匹の羊は 檻にあれども
戻らざりし一匹は いずこに行きし
飼い主より離れて 奥山に迷えり 奥山に迷えり
(「新聖歌217」、「聖歌429」より)
『海嶺』という三浦綾子原作の映画があります。江戸時代末期、聖書が日本語に翻訳されるに至る道のりがテーマとなった映画でしたが、この映画の中で、ジョニー・キャッシュがこの聖歌を歌う場面があり大変印象的でした。5節までの賛美ですが、全体が物語となっていて、歌うごとに神さまの深い愛を感じさせてくれる賛美です。
先日久しぶりに賛美する機会があったのですが、少し違和感がありました。
この聖歌は、新約聖書・ルカの福音書15章に記されている「見失った羊のたとえ」から、その歌詞が書かれているのだと思います。百匹の羊を所有している羊飼いが、見失った一匹の羊を捜し求める姿が書かれていて、私たちも神さまの目からは見失われた羊のようなものであって、神さまはそんな一匹の羊である私を探し求めていてくださる、神さまはそんな御愛をお持ちのお方であるという内容です。
この聖歌では、九十九匹は「檻にあれども」と歌います。つまり、九十九匹はちゃんと安全地帯において、その上で、失われた一匹を捜し回るとなっています。
これに対して、ルカの福音書15章を見ると、そこには「九十九匹を野原に残して」、戻ってこない一匹を捜し回ると書かれています。この「野原」は、原文では「荒野」となっています。つまりそこにはオオカミや羊の命をねらう危険な動物がいるところです。聖書では、神さまの愛は、九十九匹を危険にさらしてまでも、一匹の羊を求める愛であると書かれているように思えます。
これは決定的な違いのように思いました。
この聖歌で歌われているように、「檻にあれども」と歌いたいのが人情だと思います。しかし聖書はそうは語りません。私たちの人情を越えて、神さまの愛の神秘を語ります。プロテスタントは聖書信仰なのですが、自分たちの読みたいようには読んでいるのかもしれませんが、案外本当には聖書を読めていないのかもしれません。
ただ、以上のようなことであっても、私はこの聖歌の美しさ、歌われている神さまの愛の深さを思いますので、大好きな聖歌としてこれからも歌って行きたいと思っています。
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