2014年2月15日(土)
「わたしはあなたのさとしを思い、あなたの道に目をとめます。」(詩篇119・15)神の言葉について思いめぐらしたり、考えたりすることの価値を否定する積極性や、すぐに行動を起こさなければ気がすまない感傷的な態度ほど誤ったものはない。
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神の言葉は、私がいつでも簡単に手にすることができるような永遠不変の命題の集約ではなく、豊かな解釈がなされることによって、この私に日々新たに語り伝えられる神の言葉である。自分自身の考えではなく、神の「さとし」を正しく尋ね求めようとする者は、黙想―祈りによる聖書の熟慮―と、解釈とが不可欠である。
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われわれは先ず「神の道」を問わなければならない。この「神の道」こそが、「私の道」を規定するのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、81頁f。
「いつでも簡単に手にすることができるような永遠不変の命題の集約」を人々は望みます。それを望んで教会を尋ね、聖書を読もうとします。また教会もそのようなものを提供することが福音宣教であると錯覚をしています。しかし神の言葉はそのようなものではない、とボンヘッファーは語ります。
黙想と解釈によって日々語り伝えられるものである、それが神の言葉である、と語ります。
同じ聖書の箇所であっても、そこから神さまは今日語ってくださるのです。その神さまからの語りかけを聞くことが神の言葉を聞くということであり、教会がこの世にあって唯一なすことのできる宣教です。
このように聖書を読み「神の道」を問わなければなりません。そうして学ぶ神の道が、私の道になるのです。
(祈り)
神さま、きょうも新しくお語りください。しもべは聞いております。心の耳を開いてください。あなたの道を教えてください。そこに私の道を見出すことができるように信仰を与えてください。
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