これは世俗的に生きて、神に対して死んでいる生まれながらの人にとっては困難な言葉です。そのような人は、神の真理が非常に薄められ、使い物にならず、重要性が何もないと思わない限りは、神からの真理を納得して受け取ろうとはしないからです。
コリントの信徒への手紙第1、1章23-24節
2013年9月28日(土)『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
289頁
神からの真理を納得して受け取る、とはどういうことでしょうか。自分の納得が神からの真理を受け取る基準になっているということでしょうか。そうであるならば、私のほうが神になってしまっています。
もちろん何らかの納得も必要です。しかしその納得は自分を中心にするのではなく、神さまを中心にする、あるいは隣人への愛を中心にするということが大切ではないかと思います。
神さまの真理は、罪人である私たちには常に大きすぎて受け止めきれないものです。私の中に神さまの真理を閉じ込めるのではなく、いつも神さまの大きさの前にひざまずいて、神さまの真理を仰ぎ見ていることが、人間に与えられている健やかな道です。
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