月別アーカイブ: 2016年4月

めぐみのパンくず

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな、わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。”      イザヤ書41:10

​◎40章は「慰めよ」で始り「待ち望みで」終わりました。その神の力強い右手が信仰者に差し伸べられているのです。

◎「右」聖書では重要な位置です。「守り」詩121:5

  「弁護人」詩109:31、「勝利者の立つ位置」詩110:5を表します。義も勝利のしるしです。

◎神さまは右手を誰に差し伸べられるのでしょう。「しもべイスラエル」「選ばれたヤコブ」「わたしの友アブラハム」にと言われます。ここまではなるほどとうなずけますが、14節では「虫けらのヤコブ」と言われています。踏みつぶされても何の抵抗もできない存在、弱いものにです。 天と地ほどの差がある存在ですが、選んだがゆえに弱く貧しくとも力強いみ手を差し伸べて下さるのです。

◎またそれは御声と共に差し伸べられるのです。「恐れるな、ともにいる」「たじろぐな(狼狽するな・うろたえるな)」と。「いきり立つ者、争う者~擬人化されたさまざまな困難も~」が信仰者の周りに虎視眈々と存在するからです

◎しかし、神さまは守られるだけではありません。たくましいものに変えて下さるのです。「新しい諸刃の打穀機にすると」山も丘も目前に立ちはだかるものを砕きながら前進させてくださるのです。「主によってよろこび」ながら、「イスラエルの聖なるお方を誇り」ながら。キリスト者は前進していきます。神の民の喜びはそこにあるように思います。

めぐみのパンくず

慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなた方の神は仰せられる。”      イザヤ書40:1

◎イザヤ書の後半に入ります。前半39章までは旧約を表し、神さまの裁きが中心ですが、40章からは新約の恵みに入ります。その始まりのことば、「慰めよ。慰めよ。私の民」とは旧約の聖徒たちであり、新約時代のキリスト者に向かってかけられる言葉です。

◎もう少し「慰め」について見ますと、ナーホームと言うヘブル語のことばですが、これは「悲しむ」「悔い改める」と言う意味があります。イエスさまが山上の垂訓で「悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう」と言われましたが、悲しみ、特に罪に悲しんでいた者への慰めです。ユダヤの人々は神さまに対して不信になり罪を犯し、その結果、バビロン捕囚(70年)という悲しい時を過ごさなければなりませんでした。

◎慰めのために「道を整えよ」と言われます。悔いらため(方向転換して)でこぼこの道をまっすぐににせよと言われるのです。これはバプテスマのヨハネの出現の予告となっているところですが、ヨハネは悔い改めを民に迫りました。

◎キリスト者は救われてからも真っ直ぐな道ばかり歩むとは限りません。谷あり山ありです。落ち込んだり、高慢になったり。しかし、主の呼びかけに応じる時、その信仰の道筋はまっすぐに整えて下さるのです。

◎確かに導いて下さる主は、羊飼いのように、キリスト者の群れを飼い、子羊を大切に守って下さるのです。Vs11

めぐみのパンくず

ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれたことはありがたい。」彼は自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思ったからである。”          イザヤ書39:8

◎ヒゼキヤ王の病からの回復時の話です。大きな病気(死病)から回復したことは嬉しかったことでしょう。その経験をした人だけが知る感動かもしれません。しかしその後が大切なのです。

◎「回復祝い」と称して遠くバビロニアから王の使者たちがお祝いを述べに来ました。ヒゼキヤはよろこび、その使者に、家の中、及び国中の持ち物を見せたのです。そこには金銀だけでなく武器もあったことが記されていますが、強国アッシリヤに対しての二国の同盟への思いがあったのでしょう。

◎使者が帰った後、ヒゼキヤ王のもとへ預言者イザヤがやって来ます。そして、バビロンの使者に見せたもの一切がバビロンへ持ち去られる日が来ると言うのです。現実に、120年後ユダヤはバビロニアに滅ぼされバビロン捕囚としての憂き目にあいます。

◎ヒゼキヤは「主のことばはありがたい・結構ですとも訳せる」と答えました。また「自分が生きている間は、平和だろう。」と思ったからなのです。

◎ヒゼキヤの気持ちはよくわかりますが、この話はキリスト者へのチャレンジでもあります。ともすれば、自分の救いでと止まってしまう。後の人々への救いへの関心が薄いことへの警告であると思います。イエスさまは「わたしが来たとき(再臨)この地上に信仰が見られるだろうか」と言われました。信仰の継承を願うものでありますように。

めぐみのパンくず

わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よわたしはあなたの寿命をもう15年を加えよう。”      イザヤ書 3 8:5

◎「人間、病の器」「四百四病」と言われるほどに、病気と関わりを持たない人はいません。しかし、病気にかかった時の態度が信仰の有無に買っていることが聖書には記されています。

◎ヒゼキヤ王が病にかかりました。その時、まずどうしたか、預言者イザヤによって「あなたは死ぬ、その準備を整えよ」と宣告された時、王は医療に走る前に神の前に涙をもって心の奥底から神に訴えたのです。その内容は「今まで、主の前に歩み、全き心をもって、み前に歩みました。」と信仰者として主を信頼してきたことに訴えます。

◎キリスト者は普段、主との交わりとみ旨によるところの歩みを大切にしたいと思いますが、それは病の時、大きな力となるのです。訴えることのできる力でしょうか。神さまは覚えていて下さる。

◎まず、祈りましょう。神さまに訴えましょう。それから後、治療にかかるのです。神さまは使命のある限り(キリスト者は使命を持たない人は一人もいません)生かし、寿命を延ばされます。治療も与えられました。「腫物の上に~干しいちじくを塗りつけなさい」VS21と。

◎聖書は病の時、「主に祈らず医者に頼って悲劇を生んだ王・アサⅡ歴16:12」のことも記しています。アサ王もユダの歴代の王としては善王に入る王でした。闘いの時には主にすがりました。しかし病気になっ時には祈らなかったのです。ヒゼキヤ王のようでありたいと思います。