月別アーカイブ: 2015年10月

めぐみのパンくず

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んできたが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさか炭があった。彼は私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」”   イザヤ書 6:6~7

◎預言者イザヤにとって、よりどころであったウジヤ王が死にます。その失望感から神殿に行きました。そこには預言者としての大転換が待ち受けていたのです。

◎イザヤはそこで神さまの圧倒的な臨在に触れることになるのです。神に仕える天使たち(セラフィム)が神を賛美していました。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全知に満つ」と、神殿の敷居はゆるぎ、宮は煙で満ちます。イザヤはただ恐れるだけでした。

◎「神を見たものは死ぬ」のです。そこでは罪びとの真相が暴露され、さばきによって滅ぼされるからです。イザヤは「もうだめだ」口語訳聖書では「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ」と叫ばざるをえませんでした。

◎その時です。セラフィムが燃える炭火を火箸で持って来てイザヤの唇に当てたのです。イザヤの問題は言葉でした。言葉によって他者を糾弾する存在でした。が、その前にイザヤ自身がその言葉を発する唇をきよくされなければならなかったのです。

◎バプテスマのヨハネは「その方はあなたがたに聖霊と火のバプテスマをお与えになる」ルカ3:16とイエスさまを紹介しました。その火のバプテスマのさきがけのような出来事でした。

めぐみのパンくず

「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。」”         イザヤ書 5:1

◎キリスト者とイエスさまの関係は、多くのものにたとえられますが、「ぶどうの木とその枝」ヨハネ15:5はよく知られるところです。それは、神さまとイスラエル民族との関係をも表していました。

◎神さまは、よく肥えた山腹で入念に耕作をなし、やぐらを立て、酒舟までも掘って収穫を待ち望んだと、期待をもって豊作を待ち望まれました。神の民の霊的成長と成就をぶどう園にたとえて待ち望まれたのでした。

◎ブドウ酒は「よろこび」のしるしです。詩104:15

神さまは大きなよろこびをもって「愛する者のために歌おう」と言われました。不思議なみことばです。人間が神さまを賛美しほめたたえることはよく知っています。しかし、神さまがご自分の民のために歌っていてくださると言うのです。いかに期待が大きかったかを思います。ところが結果は「腐れぶどうができてしまった。」と嘆かれるのです。ぶどう畑のよろこびの歌は、嘆きの歌に代わってしまいました。

◎キリスト者は、新しいぶどうの園におけるイエスさまとの深いつながりを知るものです。イエスさまが葡萄の木、キリスト者は枝です。ぶどうの木の枝はそれ自体、何のとりえもありませんが、幹につながっていればふさふさとした実を結ぶのです。ヨハネ15章の中でイエスさまは「わたしにとどまりと」何度も言われました。(口語訳聖書は「つながっていなさい」)。キリスト者としての品性の実、救霊のみは、これ以外に結べないのです。

めぐみのパンくず

シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。” イザヤ4:4

◎イザヤの残したメセージの大切な事の一つに「残りの者・レムナント」があります。ユダヤ人におけるレムナント、そしてキリスト者のレムナントを考えてみましょう。

◎ユダヤ人のレムナント。ユダヤ国は紀元70年、ローマ皇帝ティトスによって崩壊され、全世界に流浪の民となりました。故にさまざまな悲劇が彼らを襲ったことを私たちは知っています。しかし1948年5月14日イスラエル国としてユダヤ人の国が再建されました。奇跡の民族と言えるでしょう。それ以上に、初代教会のユダヤ人キリスト者を除いてユダヤ人にはキリスト者は起こらなかったのですが、再建国以来、メシヤニックジューと呼ばれる、ユダヤ人キリスト者が起こされて来たのです。ローマ人への手紙11章にしるされる、ユダヤ人の回復が始まったと言えるでしょう。やがて、異邦人クリスチャンの数が満ちる時、残りのユダヤ人はみな救われるのです。

◎キリスト者としての残りの者。イスラエルへの恵みは高慢と不従順のゆえに神さまにから去りました。キリスト者も同じことが言えると思います。主が十字架の贖いによって救って下さったと何の功のない私たちですから、決して高慢ならず、主に感謝して歩みたいと思います。

◎旧約聖書における、イスラエルへの「神のいつくしみときびしさ」ロマ11:28をキリスト者も心して信仰生活を送らなければならないと思います。それは、聖書をよく読んでみこころを知り、主との交わりの中で培われて行くものだと思います。

めぐみのパンくず

「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えて下さる。私たちはその小道を歩もう。」”    イザヤ書2:3

◎主の山とはエルサレムのことです。イスラエルの民は礼拝するために上りました。エルサレムは海抜790mほどの高さですから、高さを誇ると言うよりも霊的最高峰としての権威がありました。預言者イザヤはイスラエルの人ですが、ユダヤ人だけにとどまらず、全世界の敬虔な礼拝者に呼びかけているのです。

◎第一に「ヤコブの神に上ろう」と記されています。ヤコブは押しのける人でした。罪びとの性質を多分に持ち合わせている人ですが、祝福を求める心は人一倍の人物でした。神さまはご自分を求め来たる者を喜ばれるお方です。

◎第二に神さまは「ご自分の道を教えて」下さいます。「我は道なり、真理なり、命なり」とイエスさまは言われましたが、救いの道、神の子どもとして歩む道、天国へつながるところの道を示されるのです。

◎第三に神さまの示して下さった道を歩む者は「その小道を歩む」とあります。イエス様に救われた神の子どもとは、狭き門より入った、細い道を歩みます。イエスさまと共なる歩行です。イエスさまといつも一緒ということでしょう。他の人と比べる道ではありません。イエスさまは一人一人にその信仰生活の中で、語りかけ間違った道に歩むことがないように一緒に歩んで下さるのです。みことばの道しるべをともなって。

◎信仰生活は上って行くことです。神さまを知らない人の心は、コロコロと転がり落ちて行くのです。

キリスト者はいつも上を見上げて主と共に御国に上って行くのです。