月別アーカイブ: 2014年4月

みことばのパンくず

“ただ国民のためだけではなく、散らされている神の子どもたちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。”

ヨハネ11:52

◎墓の中からラザロをよみがえらされたイエスさま、その事実を目の当たりにして、信じる人々と、信じない人々が別けられました。大祭司初めパリサイ人たちは議会を招集しイエスさまを殺そうと計画したのです。その背景にはイエスさまが民の指導者となりローマに反抗するのではとの恐れがあったからです。

◎そこで、大祭司が語ったことは一人の人、イエスさまが民の代表となって死んでくれれば良いということでした。つまりイエスさまをローマに逆らう者の代表として捕まえ殺すことによってローマの怒りからまぬかれようとのことでした。しかし、大祭司の言葉は「自分から言った」のではなく大祭司として「預言させられた」と聖書は言います。

◎神さまの御意志はしばしば、ノンクリスチャンによって進められて来ました。時代を振りかえるととんでもない指導者が大勢出没し、キリスト者は多大な迫害を受けたこともしばしばです。しかし、聖書はそれらも神さまの許しとご計画の中に備えられた存在だと言うのです。初代のキススト者たちはこの世の支配者に逆らうことはありませんでした。御心に反することが命令された時には、逆らうことよりも殉教の道を選んだのです。

◎大祭司の言葉は、イエスさまの死によって、神の子どもたちが集められるための予告となったのです。罪びとであるすべての人は、一人の罪のないお方、イエスさまの死によってのみ集められなければならないのです。イエスさまが罪を取り除くためにかかって下さった、十字架の前に集められなければならなかったのです。

めぐみのパンくず

“イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。とわたしは言ったではありませんか。」”ヨハネ11:40

◎イエスさまがラザロを死人の中からよみがえらせなさった時のお姿から学んでみたいと思います。

◎第一のことはラザロの墓の前で「石を取りのけよ」と言われたことです。ラザロは死んで4日が過ぎていました。墓を暴けば死臭が漂う凄惨な姿が現れるはずでした。ここから教えられることは、復活させていただける存在は、「石を取りのける」すなわち、石の心を取り除かれた存在でなければならないということです。旧約の預言者エゼキエルは、神さまが人間の冷たい石のような心を取り除き、肉のような柔らかい心に代える」と約束されました。エゼキエル36:26。イエスさまの復活を自らのものとする心は、かってのように固く冷たい心のままでは受け入れられず、信じられないからです。

◎第二の事は、ラザロを墓から呼び出す前にイエスさまは天の父に感謝の祈りをささげられました。それは、イエスさまの祈りに父なる神はいつも答えてくださるという感謝に溢れる信仰をここでも働かせられたのです。復活信仰の大きな現れは「感謝」だと思います。キリスト者がこのことを何よりも優先して喜んでいる時、まわりの人たちに信仰が伝わって行くのです。

◎第三に、いよいよイエスさまは墓に向かって「ラザロよ、出て来なさい」と言われる時が来ました。キリスト者は眠っています。その眠りから目を覚まさますのはイエスさまが名前を読んで下さる時です。十羽ひとからげの「死人よ」との呼びかけではありません。イエスさまを罪と死からの救い主として信じた者の一人一人の名を呼んで下さるのです。その日を心待ちにしているでしょうか。御国に入れられる信仰の備えは、なされているでしょうか。

めぐみのパンくず

“イエスは涙を流された。” ヨハネ11:35

◎イエスさまは公生涯に置いてしばしば涙を流せれました。上のみ言葉の涙にはどんな意味があったのか考えてみたいと思います。

◎弟ラザロガ病気で死んだ。そこに来られたイエスさまが「あなたの兄弟はよみがえります。」vs21と言われたのに対してマルタは「終わりの日のよみがえりの時は」と言っています。イエスさまがその時に、よみがえらせることの出来るお方とは信じていないのです。

◎マリヤはイエスさまの足元にひれ伏して「主よ、もしここにいて下さったら~死ななかったでしょう。」vs32と場所の問題をとり上げています。

◎イエスさまが死人を復活させなさることが出来るのは、時間、空間に制限されていないということです。ラザロは死にました。墓の中に入れられました。そのことに対して「終わりの日にはよみがえる」。ラザロが病気で苦しんでいる時、「イエスさまがそばにいて下さったら死なずにすんだ」。との考えは人間的な考えですね。イエスさまは、ご自身のおられるところいつでも、死人をよみがえさせられることの出来るお方なのです。そのことが信じられないで、他のユダヤ人たちと一緒に泣いたマリヤでした。

◎イエスさまの涙(憤りの)を覚えつつ、25節、26節の「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」のおことばをもう一度深く思いおこせていただきたいものです。今、ここで永遠のいのちを経験できると信じるのが、主の喜ばれる復活信仰なのですから。

めぐみのパンくず

“イエスはこれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるだけるものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって、栄光を受けるためです。

ヨハネ11:4

◎しばしば、訪れられたべタニヤホームのラザロが病気になりました。その報告を受けられたイエスさまは「この病気は死に至らず」と言われました。しかし、14節を見ますとはラザロは「死んだのだのです。」と言われています。この一見矛盾に聞こえるお言葉を考えます。

◎イエスさまが「死んだのです。」と言われたのはラザロの肉体の死でした。幾年生ける者は皆、肉体の死を迎えねばなりません。しかし、聖書はもう一つの死を私たちに教えています。それは霊の死です。もう少し言いますと、死んで後、受ける「神さまの裁き」です。

◎イエス・キリストを数い主として信じた者には肉体の死が別の表現で語られます。「私の友ラザロは眠っています。」と11節でイエスさまは言われました。使徒パウロもテサロニケのキリスト者たちに「眠っている人たち」Ⅰテサロニケ4:13と言っています。夜に眠り、朝に目覚めるように、キリスト者は永遠の世界に目覚めるのです。

◎デンマークのキリスト者であり哲学者のキエルケゴールはその著書「死に至る病い」に於いて「死に至る病とは絶望であり、絶望とは自己の喪失であり、自己のみならず神との関係の喪失である」。と言っています。では「死に至らない病」とは「希望に繋がる事」だとも言っているのです。

◎キリスト者の希望「決して失望に終わることがない」

ロマ5:5ものです。希望はよみがえりの希望ですね。

◎イエスさまはこのよみがえりの希望を与えるために来られたのですが、その業を「昼の業」9節と言われました。昼とは活動の時であり、生きている時です。ラザロは生きている時に永遠に生きるための救いをイエスさまからいただいていたのです。