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めぐみのパンくず

“そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなた方は、ほんとうにわたしの弟子です。そして、あなた方は、真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。”                  ヨハネ8:31,32

◎誰もが「自由」でありたいと願います。不自由は喜びが失われるからです。「自由」と言うことばは人を解放しますが、本当の自由に出会わない限り、自由はいつの間にか、不自由になってしまうのです。

◎イエスさまは、先に信じたユダヤ人たちに本当の自由とは何であるかを話されました。上のみ言葉によると、「みことばにとどまること」「弟子となること」その結果「真理」=「ほんとうのこと」を知り~「自由」になるとのことです。

◎しかし、ユダヤ人たちには自負がありました。この当時、ユダヤの国はローマの支配にありましたから、神の民であるというプライドが許さなかったからでしょうか。

二つのことを言い張ります。自分たちはアブラハムの子孫だとVs32。また、自分たちの父は神であるとVs41。

◎イエスさまのこたえはこうでした。「アブラハムの子孫なら、アブラハムのわざを行いなさい」vs39.アブラハムは神さまのみことばと示しに従いました。そしてその信仰は、救い主にまで至り、御国をも望んでいくのです。

◎彼らが「神が父」と言ったことには、イエスさまはなお厳しく語られます。「あなたがの父は悪魔」だとvs44.悪魔は人殺しであり、偽り者だとも言われます。何を偽るのでしょうか。イエスさまの真理(本当のこと)を信じさせないようにするのです。そして魂を滅ぼすのです。

◎真理とはイエスさまが救い主である事、真の自由はこの方を信じ、愛することなのです。そのみ言葉にいつも聞いてキリスト者は歩むのです。

めぐみのパンくず

“イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなた方はこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。“ヨハネ8:23

◎先週はイエスさまと人間がどれほど隔たっているかの表現を距離で現しましたが今回は、イエスさまと私たちの質的違いを見てみたいと思います。なぜイエスさまを信じなければならないかが一層理解されますように。

◎第一に人間は死ぬ存在であるということです。歴世歴代、古今東西どれほどの人々がこの地上に生を受けてきたのでしょう。しかし、すべての人が死にました。

◎それはひとえに、この世だけの存在だからだと、イエスさまは言われます。この世とは何を現しているのでしょう。罪の世界だと言うのです。ヨハネは第一の手紙の中で「世にあるもの、すなわち、肉の欲、眼の欲、暮らし向きの自慢」Ⅰヨハネ2:16と言っていますが、気をつけないとそれらに支配されてしまうのです。

◎キリスト教は「罪、罪」と言うから嫌いだと言う人がありますが、モーセの十戒に照らし合わせてみる時、すべての人が罪を持っていることがわかり聖なる神の御前に立つことが出来ません。罪の中に死んでいくのです。

◎そのような人間世界の中に、真実なお方である神さまは、罪のない御子をこの世に送って下さいました。この世でイエスさまは何をなさるために来られたのか、ヨハネは「上げられるために」vs28と記します。ニコデモとの対話の中でイエスさまは「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまたあげられなければなりません」と言われました。罪と罪の世を滅ぼすためにイエスさまは十字架の上に上がるために来られたのです。

◎このイエスさまが救い主であることが十字架に架かられることによってわかることが出来るようになったのです。

めぐみのパンくず

“イエスは答えられた。「あなた方は、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」”ヨハネ8:19

◎第七戒「汝姦淫するなかれ」を破って人々の前に引きずり出された女を「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたイエスさまは、もう一度パリサイ人たちと話されます。12節のみ言葉は有名なみ言葉です。「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と。

◎残念ながらパリサイ人にはこのことがわかりませんでした。「もし、イエスさまを知っていたら。どんな光が射すのでしょう。

◎その証言の真実がわかります。その証言とは、第一に「わたしはどこから来たか」と言われることがわかるのです。キリスト者はイエスさまが父なる神さまから来られたお方だと知っています。では父なる神はどれほど遠い所におられるのでしょう。使徒パウロはコリント人への第二の手紙の中で「第三の天」にまで引き上げられたと告白しています。第一の天は鳥が飛び、雲が流れる所、第二の天は星々の世界です。それらを超えてはるか高い所からイエスさまはこの地に下って来て下さったのです。「及びもつかない所」からです。

第二に「どこへ行くのか」もイエスさまの証言によってわかるのです。イエスさまはどこへ行かれましたか、貧しい乙女のお腹に、ナザレの大工の家に、そしてやがて人々の罪の身代わりに十字架へ、墓の中へ、それから復活し弟子たちに現れ、オリブ山から天に帰られました。それは唯一の救い主を証言しているのです。

◎ですからイエスさまの裁きも父なる神さまと共にサバ裁かれるのです。人間の生れながらの性質によって裁くのとは違った、正しい裁きをされるのです。◎興味深いことですが、この話を献金箱のある所で話されました。

めぐみのパンくず

“「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」”ヨハネ8:11

◎聖書は私たち一人一人が神の前に立たなければならない時が来ることを教えています。ヘブル9:27信仰者と未信者には決定的な違いがあるということです。それは救い主イエス・キリストが私たちの罪を十字架で赦して下さったがゆえに、助け主、弁護人となって神の前に立たせて下さるということです。

◎ここにおいて小さな法廷を見るようです。罪人は姦淫の現場を捕えられた女、訴える者は律法学者とパリサイ人、イエスさまは判決を下す判事の役目を。律法学者、パリサイ人はこの機をとらえてイエスさまを試し、告発しようとたくらんだのです。イエスさまが律法に記されている如く、「姦淫を犯した者は石打の刑だ」といわれれば、「それではあなたが日ごろ伝えられている愛はどうなるのですか?」と言い返し「神は愛だから、赦すべき」と言われれば「神の義は立たなくなる」と、イエスさまを責めようと待ちかまえていたのです。しかし、イエスさまは沈黙の中、地面に指で何かを書いておられるだけでした。聖なる沈黙、雄弁は銀、沈黙は金でしょうか!

◎律法学者、パリサイ人は問い続けます。イエスさまは身を起こし言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げよ。」と。雷鳴が響きわたるごとく人々の心に突き刺さります。興味深いことは「年寄りから」去って行ったことです。人はイエスさまの血潮による贖いの赦しと聖さを受けない限り年齢を増せば増すほど罪を重ねて行くのです。そしてその報酬は死です。ロマ6:23.イエスさまはまた地面に何かを書かれました。最初に書かれた言葉は「律法」で二度目は「愛」と書かれたと学んだことがありますが、しかりです。

◎人々が去った後、女はイエスさまと二人きりになりました。この時が女にとっては最も身が引き締まる時だったのではないかと思います。

そして最も聞きたかったお方の思いを聞くことになるのです。「わたしも~罪に定めない。行きなさい。以後罪を犯さないように。」神さまの義を愛で包んだ贈り物のような言葉です。キリスト者は罪の告白の後、赦されてこのお言葉に励まされて信仰生活を送っていくものです。

めぐみのパンくず

“祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。”ヨハネ7:37,38

○仮庵の祭りの大いなる日、シロアムの池から運び上げられる水が神殿の祭壇に注がれる、クライマックスを迎えました。イスラエルの人々にとって、それは大いに盛り上がったことでしょう。

○しかし、イエスさまの眼から見れば、祭りを通して本当の心のみたし、潤いは与えられていなかったのです。人はイベントに群がります。大いに盛り上がります。しかし、終わった後は帰って虚しく、さびしいものです。

○イエスさまは28節に続いてここでも大声で、上のみ言葉を叫ばれました。旧約聖書のメシヤ預言。それは渇きを癒し、いつまでも変わることのない潤いを与えて下さるお方として預言されていました。そのメシヤが叫ばれました。

○さて「生ける水」とは聖霊を現します。この方がキリスト者のうちに来て下さると、尽きない泉のように潤い続けることが出来ると言われるのです。イエスさまを信じて、十字架の救い、復活の喜び、神さまの子どもとして成長させられていくために、必要欠かせられることのないお方は聖霊です。またそのように、キリスト者をいざなって下さるのも聖霊なのです。

○キリスト者は、すべてイエスさまの所にやって来てこの生ける水を飲んだものなのです。サマリヤの女の心に、泉となり、永遠のいのちのへの水がわき出たように潤おされて行くのです。