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めぐみのパンくず

“そこに、38年もの間病気にかかている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って彼に言われた。良くなりたいか」”

  ヨハネ5:5

◎べテスダの池の周りは病院のようです。そこで」病む者たちに一つの大きな恩恵がありました。時々主の使いが降りてきて水を動かす時(間欠泉のようなもの)、真っ先に飛び込んだものは癒されたのでした。

◎そこに38年間も病んでいた男がいました。イエスさまはその男に「よくなりたいか」と訊ねられました。「よくなりたい」とすなおに答えればそれで癒されたはずですが、長年の不満の方が先立ちます。「池の中に入れてくれる人がいません」「他の人が先に降りて行くのです」と。癒されない責任は他人にあるとの発言です。長い間療養生活を続けていると目的よりも手段の方に重きを置いてしまうということになるのかも知れません。大切なことは主が「よくなりたいか」と言われたらそうして下さるということです。この病人の思いをこえてイエスさまは癒しなさいました。

◎イエスさまの癒しは肉体だけの癒しにとどまるものではありません。この男の病の原因が罪にあったことを聖書は記します。再び失敗をすることがないようにとの警告です。心も体も、福音の光を受けたものが再び罪を犯したら、初めの状態よりももっと悪くなると言われるのです(Ⅱペテロ2:20)再発の治療が困難であるように、罪の世界に再び陥ることはとても危険であることをイエスさまは愛のうちに語っておられるのです。主のお言葉を大切に信仰生活を送り続けたいと思います。

めぐみのパンくず

“それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。”ヨハネ6:33

○再びカナでの出来事で、第二の奇跡が行われます。病気の子ども、しかも重篤の子共を抱えた父親が癒しを求めてやってきます。

信仰について考えます。

○信仰とは第一に願い続けることです。役人は「下って来て息子を癒して下さるように」と願います。イエスさまは良い返事をなさるどころか、人の思いを暴くがごとく「あなた方はしるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」と。決して、とは強い非定型です。しかし、役人は「主よ、どうか」と、願いをひっこめることなくひるまずにせまりす。イエスさまは求めていることが本気なのか~絶対必要なのかを明らかにされるお方です。興味深いことは二度、役人が「下って来て」と言っています。天から下って来て下さったお方が祈りに応えて下さる方なのです。

○第二に、み言葉を信じることです。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」役人はそれ以上、イエスさまに「来て下さい」とは願わず。「言われたことを信じて」帰途についたのです。求め、祈り、お言葉がくれば信じる。そして信じた通り行動する。最後に主のこたえの実現を見るのです。

 イエスさまの語られた時刻と、息子が癒された時刻が同じだったことを知った時、問題解決のための信仰から、真の信仰者(信仰生活)に役人家族はなったのです。

めぐみのパンくず

「わたしが与える水を飲む者はその人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわきでます。」       ヨハネ4:13、14

◎渇きは空腹よりも耐え難いものです。イエスさまは喉の渇きもさることながら、魂の渇きを癒すために来て下さった救い主です。

◎イスラエルは北からガリラヤ、サマリヤ、ユダヤと三つの地域に別れていました。ユダヤからガリラヤへ行く途中サマリヤを通過されたと聖書は記しますが、ふつうユダヤ人はサマリヤをさけて通りました。

◎イエスさまとサマリヤの心渇いた女との会話が始まります。この女にとってイエスさまが「水を飲ませて欲しい」と言われたことは驚きでした。なぜならユダヤ人はサマリヤ人とは口もきかないほど敵視しており、また男性が女性に声をかけることなどありえなかったからです。

◎サマリヤの女には5人の夫が過去にあり、現在同棲していることを、イエスさまは指摘されます。女には満足がなかったのでしょう。当然、心に潤いもありません。渇いた心でこの世を過ごして行くことに耐えられないことをイエスさまは知っておられました。

◎イエスさまは女に上の御言葉を語られました。差し出される水(みことば)を飲む者は「泉が、しかも永遠の命への泉がわき出る」と言われるのです。いつまでも渇かないように潤される魂。それはどんなかたちであらわれるのでしょう。言うまでもなく、永遠に生きるという喜びです。