日別アーカイブ: 2015年8月2日

めぐみのパンくず

“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。”      Ⅰヨハネ4:10

◎「ここに愛がある」とこの手紙を読むキリスト者に指差したのは、十字架のイエスさまでした。その内容は「罪のための、なだめの供え物としての」とヨハネは言います。「贖いの供え物」と訳した聖書もあり、罪を償ういけにえ、とも書かれ、英語の聖書では、私たち人間に対する「怒りを静めるために」と訳されたものもあります。罪の深さは愛の深さに伴うと言われますが、十字架を見上げて、「ここに愛がある」と確信できるキリスト者は何とさいわいなことでしょう。

◎私たちキリスト者は神さまの愛を見出すことが出来たのですが、神さまにとっては何と大きな犠牲であったかと思います。しかしヨハネは「神はこれほどまでに」vs11私たちを愛しておられるのだと言います。

◎人間にとって本当に大切なものは目に見えないと言われます。「命」も「心」も「空気」ですら目に見えません。ましてや神さまの愛もです。ところが見えないものを可視的にしていくことが出来るのが、キリスト者なのです。「いのち」ということにおいてキリスト者は永遠のいのちの希望を喜びます。世の人が味わえない喜びです。愛は教会の交わりの中で見る事が出来ると言うのです。「愛されている」ということもあるでしょうし、愛して行く姿勢に見えると思います。自分の好みではありません。自分と同じように他の兄弟姉妹も神の愛の中にある存在と受け入れる時にです。