主のいやし
マルコ1章40~42節
さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
「ツァラアト」。かつては「らい病」と訳されていました。旧約聖書ヘブル語で「神に打たれた」「神罰」という意味ですので、らい病をはじめ特定の病名に翻訳すると、その病気が神罰の結果の病気と理解されてしまう恐れがあります。聖書では旧約聖書ヘブル語の発音のまま表記されることになったようです。
「お心一つで」。すなわち、みこころならば、あなたが望んでくださるならば、私はきよくなることができるのです、と病に冒された人が主のまえにひざまずき懇願しました。それに対して主は深くあわれまれました。そして驚くべきことにその手を伸ばし触れてくださいました。「わたしの心だ。きよくなれ」。主のおこころはきよくなることだったのです。
私たちは時々「みこころならば」と祈り願います。みこころであれば聞(効)かれるが、そうでないならばだめだ、と教えられていますので・・・。しかし主は大胆に「わたしの心は、あなたがきよくなることなのだよ」と語ってくださいました。私たちの主は、私がきよくなること、あるいは病が癒やされて健やかに生きることを誰よりもあつく願っていてくださるのです。
みこころならば、と祈ってしまう私たちに、そんな気遣いは取り払って大胆に願ってくれないか、わたしとあなたの間柄ではないか、と親しく語ってくださっているようです。