2025年1月12日聖日礼拝

動画(40分02秒)

聖書 申命記11章18節〜21節
説教 「信仰の家族」
説教者 タン・ショーン師


今月の聖句

コロサイ人への手紙2章9節

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。


今週の聖句

ガラテヤ人への手紙3章7節

ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。


ルカの福音書からの黙想 ルカ2章後半

ルカ2章に於いてイエス様はヨセフ、マリヤに連れられて2回、エルサレムの神殿に行っています。一回目は生後八日目、割礼を受けるため、いけにえを献げるためにベツレヘムからエルサレムに赴いています。この時ヨセフマリヤは「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と最も貧しい人の献げものをしています。二回目はその後12年経って、イエス様がユダヤのしきたりで12歳の時成人になったときガリラヤのナザレから両親や村の人々と一緒にエルサレムの神殿に礼拝に行っています。祭りの期間が終わって一行はナザレの村に向かって一日の旅をして宿につくとそこにはイエス様がおられなかった。翌日ヨセフマリヤは一日歩いてエルサレムに戻り、翌日エルサレムを捜すとなんと12歳の少年イエス様は神殿で教師たちの真ん中に座り律法について討議をしておられ、聞いていた人々は少年イエス様の知恵と答えに驚いていました。心配してイエス様を捜しにエルサレムまで戻って来たヨセフマリヤにイエス様は「「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」とお答えになられました。神であられるメシヤ・イエス様は罪人の世界に来てくださり、へりくだって人と同じ姿を取ってくださり、罪人の受ける割礼を受けて下さり、最も貧しい人たちの献げものをささげて下さり、貧しい大工ヨセフの家で、両親に仕え、弟妹の世話をするしもべになってくださいました。人と同じ姿になってくださいましたが、幼いイエス様には神様の知恵が満ちあふれ、家族を愛する愛が満ちあふれていました。「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」(ルカ2章51~52節)この人となられたイエス様を「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり」(ヘブル書5章8~9)とヘブル書の著者は証ししています。イエス様は幼い頃より、罪、悪の満ちあふれるこの世で神の光、愛、知恵に満ちて歩んでおられました。弱く無力な私たちも神の力、知恵によってこの世の光として輝きましょう。

2025年1月5日聖日礼拝

動画(42分12秒)

聖書 ルカの福音書5章1節〜11節
説教 「恐れることはない」
説教者 高橋 博師


今月の聖句

コロサイ人への手紙2章9節

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。


今週の聖句

イザヤ書41章10節

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。


ルカの福音書からの黙想 ルカ2章前半

クリスマス物語の背景には光と闇のコントラストがあります。ルカ1章では熟練した高齢の祭司ザカリヤが神殿内での天使の語りかけに対して不信仰な応答をしています。一方、ガリラヤのナザレの若い未熟な少女マリヤは天使の語りかけに「私は主のはしためです。あなたのおことば通りになる様に」と従順な信仰の応答をしています。さらにコントラストは続きます。ルカ2章では最高の権力者皇帝アウグストの住民登録の勅令とそれに振り回される貧しき人々。ヨセフとマリヤは先祖ダビデの町ベツレヘムにたどり着き、馬小屋でイエス様を出産して飼葉桶に寝かせています。マタイ福音書では東方の博士が遠くからはるばる旅をしてイエス様を礼拝して高価な黄金、乳香、没薬をささげています。その博士と対照的に、近場で羊の夜番をしている貧しい羊飼いに救い主誕生の告知が大空の輝きと天使の賛美の中であり、羊飼いたちは何も持たずに、誰よりも早く救い主を捜し当てて主を礼拝して帰途についています。何もささげる物を持ち合わせていない羊飼いたちでしたが、誰よりも早く救い主を礼拝しました。誰よりも豊かで富める神の子イエス様は最も貧しい幼子として寒空の中、悪臭漂う家畜小屋の冷たい石の飼葉桶でこの地上での生を始まられました。自分の自宅ではなく旅の途上での十分な備えのない不安定な中での誕生でしたが、天使たちに守られて恐れなく不安なく安らかに眠っておられました。布にくるまって飼葉桶でお休みになっている幼子イエス様は、その存在を通して「恐れることはない。父なる神が共にいてくださる」と語っていてくださいます。イザヤはやがて誕生する救い主を「その名はインマヌエル」と預言しました。インマヌエルとは訳すと神がいつも共にいてくださる事であります。馬小屋のイエス様のそばに父なる神はいつも共にいてくださいます。無防備であっても、所持品がなくても、人生の旅の途上で何が起こっても、主が共にいてくださいます。それに勝る恵みはないと幼子イエス様は勇敢に語っていてくださいます。私たちもマリアやヨセフの様に無力、無所持であっても、インマヌエルの主が共にいてくださる事を確信して恐れないで、平和に包まれて、主と共に歩みましょう。