今月の聖句
サムエル記第一17章37節
獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。
今週の聖句
ヨハネの福音書8章36節
ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。
ルカの福音書からの黙想 ルカ5章前編
ルカ福音書5章前半からの黙想。ヨハネ1章でペテロは弟アンデレに誘われてイエス様の弟子となりました。イエス様に従いカナの婚礼にも出席して水がぶどう酒に変わる最初の奇跡も体で体験しています。専業漁師のペテロが兼業漁師の様になってイエス様について行きました。ペテロの姑はそのようなペテロの生活に不安を感じてか熱病を患いました。そんなペテロの姑の不安を察知してイエス様はペテロの姑の熱病を癒され、ペテロの姑はイエス様にお仕えするようになりました。ガリラヤ湖畔に集う群衆にイエス様はペテロの舟から説教をされました。話が終わると、イエス様はシモン・ペテロに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。シモンは「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と沖に出て網を下ろしました。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」と言うペテロの言葉の背後にはどんな思いがあったでしょうか。ペテロは漁師のプロでありガリラヤ湖を知り尽くしている自信、自負心を持っていました。プロの私たちが徹夜で漁をしたのに魚一尾取れませんでした。イエス様は姑の病を癒してくださる先生でも、元はナザレの大工、漁の事は私たちの方が熟練しています。折角網を下ろせと言われたのだから魚がいないと証明してイエス様に納得していただくため、網を下ろそうとしました。すると「たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。」舟は沈みそうになりました。この時「シモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(8節)と叫んでいます。私は罪深い人間、イエス様のことばを信じなかった罪、漁師としてのプライド、過信、おごりの罪意識に心が責められて、私は罪深い人間ですと叫んでいます。イエス様はシモン・ペテロに優しく言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨てて、イエスに従った。」(10~11節)ここの「すべてを捨てて」と言う言葉には、舟や網という物、漁師という生業を捨てるだけでなく、今までの誇り、自信、常識、価値観、人生観、自己認識、イエス観を捨て、新たな自己像、イエス様の姿を信じて信仰の旅に出発しました。