2024年10月6日聖日礼拝

動画(37分21秒)

聖書 ピリピ人への手紙2章1節〜11節
説教 「イエスキリストは主」
説教者 高橋 博師


今月の聖句

ガラテヤ人への手紙第5章22節〜23節

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。


今週の聖句

マタイの福音書20章28節

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。


創世記からの黙想 創世記40章

マタイ5章29節でイエス様は「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。」と教えています。ポテファルの奥様からの誘惑を受けた時、ヨセフは上着を捨てて身の潔癖を守りました。誘惑に失敗したポテファルの奥様はヨセフの上着を罪の証拠と偽って夫に見せたため、幸せになりかけたヨセフは王の囚人の監獄に投獄されました。監獄の中でも主はヨセフと共にいて下さったので監獄にいるすべての囚人の管理を任されるようになり、主はヨセフのすることすべてを成功させてくださいました。これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯してヨセフのいる牢獄に投獄されて来ました。献酌官と料理官は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見ました。朝、彼らは顔色がすぐれません。ヨセフは二人に「なぜ、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。二人は不思議な夢を見て何か意味があるのではないかと苦しんでいました。ヨセフは解き明かしは、神のなさることではありませんか。私に話してください、と言ったので二人は夢の話しをしました。献酌官はヨセフに自分の夢を話した。私の前に一本のぶどうの木があり三本のつるがあった。芽を出し花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるとは三日のことです。三日のうちに、ファラオは元の地位に戻すでしょう。」料理官もヨセフに自分の夢を話しました。「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」この夢の預言の通り献酌官は元の職務に戻り、料理官は木につるされました。ヨセフは獄中で調理官に「あなたが幸せになったときには、私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください」と嘆願しています。ところが、獄屋から解放され幸せになった献酌官はヨセフのことを忘れてしまって二年の歳月が流れてしまいました。人は忘れても神様はお忘れになりません。人に期待して裏切られても、裏切ることのない神様がおられます。ヨセフはここでこの大切な教訓を学んでいます。

2024年9月25日聖日礼拝

動画(24分38秒)

聖書 エペソ人への手紙2章1節〜10節
説教 「めぐみの贈り物」
説教者 リュウ・ホイイン師


今月の聖句

コリント人への手紙第二5章17節

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。


今週の聖句

エペソ人への手紙2章8節

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。


創世記からの黙想 創世記39章

ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。」(1節)エジプトに売り飛ばされたヨセフの奴隷生活が始まります。エジプトでのヨセフの生活は「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」(2~3節)と表現され「主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」(5節)ヨセフを祝福の基、発信地と主は変えてくださいました。37章のヨセフは、甘やかされた自己中心の兄弟からの嫌われ者でした。それがエジプトに行ってから、主がヨセフとともにおられ、ヨセフのゆえにエジプト人の家を祝福する器と変えられました。ヨセフの中にどんな変化があったのかは具体的には書かれていません。孤独の中、自己中心の罪を悔い改め神様にだけ頼る信仰に生きる決心をしたのでしょう。ヨセフの父ヤコブも孤独な中で悔い改め信仰に生きています。孤独な中、人間に頼ることが出来なくなった時、心底から神様におすがりし、信頼できるのは神様だけと言う信仰が養われる時になります。人から捨てられる時、人が当てにならない時、人間の力の弱さ限界を感じる時、苦しい時ですが神様の無限の力と愛、ご計画に目覚める時となります。エジプトに来た時のヨセフはだれも人間に頼ることは出来なかった。ただ主なる神様に頼るより外はなかった。この主にだけ頼るヨセフとともに、主は歩んでくださり、ヨセフだけでなくヨセフのゆえにエジプトの家を祝福してくださいました。ポテファルの奥様に裏切られて牢に入れられても主が共にいてくださいました。献酌官長の夢を解き、献酌官長はもとに地位に戻り恩人ヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。人が忘れて、見捨てても全能の神様はお忘れになることはありません。エジプト王の夢を解くため牢獄から王宮に召され、やがてエジプトの総理大臣になり、エジプトの救済だけでなく、自分を売った兄たちを飢饉から救い出す器に導かれて行きます。主は主を信じる私たちとともにいてくださいます。主のなさることに期待して希望と信仰を持って歩みましょう。シャローム。