2023年7月16日聖日礼拝

動画(40分12秒)

聖書 創世記37章12節〜36節
説教 「罪の支払う報酬」
説教者 高橋博師


今月の聖句

ペテロの手紙第一2章25節

あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。


今週の聖句

ローマ人への手紙6章23節

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。


今週の詩篇の黙想

詩篇131篇

  1. 詩篇131篇はわずか3節、10行の短い詩篇です。詩篇を讃美歌として歌っていた人々は、この短い詩篇をリズミカルに、礼拝の中で、会衆と共に、生活の中で繰り返して、歌っていたことでしょう。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、くすしいことに、私は深入りしません。」と1節は始まっています。原文では「深入りしません」は、「歩きません」ということばが使われています。誇りません、高ぶりません、歩ゆみません、と三つの動詞が否定形の形で並んでいます。誇る、高ぶる、から歩む(深入りする)と心理的行動的発展があります。この発展は意味的にもことば的にもリズミカルでありますから危険です。詩篇1篇も「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」と始まっています。歩む、立つ、着くと動作を現す動詞のことばの発展のリズムがあります。悪者、罪人、あざける者と名詞、主語も変化と発展があります。発展というより悪への変化深化です。悪者のそばを好奇心をもって誘惑されながら歩く状態から、立ち止まってその世界に引き込まれ、ついに座り込んで、罪の世界に定着、定住してしまう様子が書かれ、そのような誘惑に巻き込まれない人の幸いを詩篇1編は歌っています。水路のそばに植わった木のように、時が来れば実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える、と歌い上げています。

  2. 詩篇131篇は詩篇1篇を思わせる歌であります。水路に植わった木が水の恵みに良くして成長するように、幼子が母親の母乳で育ち、乳離れしても、まだまだ堅い食物は食べられず、母親の用意したやわらかい離乳食に頼らなければならないような、自分の弱さを認めつつへりくだった信仰、母に依存している乳児のように神様に全面的に依存、信頼している詩篇記者の信仰が描かれています。水路のそばでなければ植物が枯れるように、乳離れした幼児が母から離れて生きていけないように、主を待ち望み、主と交わりつつ歩む信仰に生きることを新たにしたいと思います。乳離れした子供には大きなこともくすしいこともする能力はありません。母に信頼するように、何もできなくても父なる神に全面的に信頼する尊さを喜びを持って生きて行きましょう。

2023年7月9日聖日礼拝

動画(32分42秒)

聖書 ローマ人への手紙10章8節〜11節
説教 「イエスを主と告白する」
説教者 高橋博師


今月の聖句

ペテロの手紙第一2章25節

あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。


今週の聖句

ローマ人への手紙10章10節

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。


今週の詩篇の黙想

詩篇130篇

  1. 今日の聖書は詩篇130篇です。「主よ、深い淵から、私はあなたを呼び求めます」と1節は始まっています。深い淵とはとんなイメージでしょうか。不義が3節に出てくることから、罪の苦しみのどん底からの叫びであり祈りであります。ダビデがバテシェバと姦淫の罪を犯し、預言者ナタンと聖霊に責められた時、暗黒の中で煩悶している時、深い淵の底から主を叫び求めている姿を想像することができます。ペテロがイエス様を否定して鶏の声を聞いて、自分の犯した罪の中でもがいている時も深い淵の中のようです。パウロが正しいと信じてダマスコにまで行って教会を迫害している時、わたしはあなたが迫害しているイエスである、との幻を見たとき、光に打たれ、目が見えなくなり悶々としている時の叫びもこのような叫びであったと思われます。

  2. 5~6節には主を待ち望みます、と「待つ」という言葉が6回繰り返されています。主を待つという信仰は詩篇の根底に流れている信仰であります。待つが6回繰り返されていますが、主語は、「私は」と「私のたましいは」が交互に入っています。待つ対象も「主を待つ」が二回繰り返された後「主のみことばを待つ」と発展しています。「待つ」信仰を豊かに表現するために、夜回りが夜明けを待つ心境が例に挙げられています。主を待ち望むことは、み言葉の約束を待つことであり、魂に光が差し込む救いを待つことであります。

  3. 1節の「あなたを呼び求めます」が5節では「私は主を待ち望みます」に進み、7節では「イスラエルよ、主を待て」と発展しています。この変化の中に、主を呼び求め、主を待ち望む中で、主の贖い、主の恵み、主の赦し、主のみことばを体験して、信仰の確信に進んでいます。「イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。」(7節)と確信に満ちた勧めです。罪のどん底、深き淵へ転落した人物が主の恵みで引き上げられ、信仰の体験に基づいた喜びの詩篇、賛美であります。私たちも確信に満ちて「主はすべての不義からイスラエルを(私を)贖いだされる」と告白、賛美をしましょう。