説教要旨 2026年8月9日(日)

  • 日時:2026-08-09
  • 聖書箇所:第一コリント11章27~34
  • 説教題:自分をわきまえる

暗唱聖句

しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。

第一コリント11章31節

説教要旨

自分をわきまえる(聖餐式のふさわしい仕方1)

聖餐式を行うことは大切なことですが、それとともに聖餐式をふさわしく行うことは大切です。ふさわしく行わなかったので「あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいる」(30)と恐ろしいことまで聖書は語ります。もちろんふさわしく行わなかったので罰(ばち)が当たったということではないと思います。パウロの言いたいことは、聖餐式はそれほどに大切なものである、私たちの生き死にに関わることだ、もしゆるがせにするならばただでは済まない、ということだと思います。さばきの恐ろしさではなく、聖餐式の重要性を語るのです。

ゆるがせにしない聖餐式とはどのようなものなのか。聖餐式のふさわしい仕方とはいったい何であるのか。パウロは二つの「わきまえ」を語ります。ひとつは、「自分をわきまえる」(31)こと。もうひとつは「みからだをわきまえる」(29)こと。わきまえる、とは、理解する、意味を知る、ということです。自分自身を理解すること、そしてみからだ、すなわち聖餐式で分餐されるパンと杯(ぶどう酒)を理解する、ということです。立派な儀式を行うことでも、特上品のパンやぶどう酒を準備することでもありません。信仰によって自分と聖餐式で用いられるパンとぶどう酒を理解することです。

まず自分を理解することとして「自分を吟味」(28)しましょう。吟味するとは、確かめるテストする、という意味のことばです。自分が聖餐式を受けるにふさわしいかどうかを確かめるということです。

自分の何を確かめるのか。罪を犯さずきよい生活ができているかどうか。イエスさまへの信仰が確信に満ちたものであるかどうか。そういう自分というものが立派に生きていることが、ここで自分を確かめることであり、それをもって聖餐にあずかることのふさわしさとするのか。そうではありません。聖書は「義人はいない、一人もいない」(ローマ3章10節)と語っているのですから、私たちはすべて聖餐式にあずかるのにふさわしくない者です。

自分を確かめることによって、自分は如何に聖餐式にあずかるのにふさわしくない者であるのかを確かにする、ということが、ここで「自分を吟味する」の意味です。ふさわしくない者である、と自分自身を理解することこそ、聖餐にあずかる者のふさわしさです。

逆に、自分はできるだけ罪を犯さないようにしている、礼拝にもしっかり出ている、教会の奉仕も率先して行なっている、少なくともあの人よりはましだ、などと自分を吟味しているとするならば、自分のことが本当にはわきまえられていないということであり、全く聖餐式にはふさわしくないといわなければなりません。

みからだをわきまえる(聖餐式のふさわしい仕方2)

もう一つは「みからだをわきまえる」ことです。前回も学びましたが私たちは聖餐式においてキリストのからだと血に与り(あずかり)ます(分け前をいただきます)。しかし実際に食するのはパンとぶどう酒です。パンとぶどう酒はどんなに祈ったところでキリストのからだと血に実体変化をするわけではありません。しかし単なる象徴でもありません。私たちは信仰によって、聖霊のお働きの中で、パンとぶどう酒に現臨されているキリストのからだと血にあずかるのです。ですからどうしても信仰が必要です。罪びとでしかない私の信仰はどこで問われるのか。ひたすら洗礼にあずかっているか否かで信仰は問われます。

信仰によっていただくとき、パンはキリストの肉であり、ぶどう酒はキリストの血なのです。

みからだをわきまえる、とは、このパンとぶどう酒がキリストの肉であり血であると思い込むこと、ではありません。そういう私の力で思い込むといった迷信的な信仰がキリスト教ではありません。みからだをわきまえる、とは、このキリストの裂かれたからだと流された血が、全くふさわしくない者でしかない私を唯一生かすものである、と信じることです。すなわち十字架にかかりその肉体を裂き、血を流された主イエス、復活され今もともにいてくださる主イエスによってのみ、私は生きる者となる、と信じることです。十字架と復活によってなされた神の贖いのみわざが私のためであった、と信じることこそ、みからだをわきまえること、なのです。

キリストの十字架と復活が私を生かすものであると信じることですが、みからだをわきまえるとは、これ以外にはない、ということを信じることです。立派な信仰生活や行いに加えて、パンとぶどう酒が私を生かす、などということではないのです。これ以外に私を生かすものがない、ということをわきまえることが、またみからだをわきまえることです。

主イエスは、わたしを覚えてほしい、と願われました。キリストを覚えることが、私たちを生かすことだからです。そうして聖餐式において聖餐卓についていてくださいます。そうして「とって食べなさい」とパンとぶどう酒によってご自身のからだと血を差し出してくださいます。その尊いみからだを前にして、ほかのもので自分を満たそう、あるいは満たされている、などということがどんなに、みからだをわきまえていないことであるのか、主のからだを軽んじることになるのか、如何に主に対して申し訳ないことであるのか。みからだを本当にわきまえるならば、受ける私は何も持たず、罪びとでしかないことをわきまえて、空っぽであずかること、ただ一方的に恵みにあずかることこそ、ふさわしいことです。

主はきょうも、わたしを覚えてほしい、と裂かれた肉と流された血を差し出してくださいます。

祈り

まったくふさわしくない者である、そのように自分をわきまえる知る者こそ、真にふさわしい者である。あなたの十字架と復活以外に私を生かすものが、この世界にも、自分の中にも何一つないことをわきまえ、あなたのみからだを真実にわきまえさせてください。そうしてあなたのいのちに生かしてください。あなたのいのちのみに生きるものとならせてください。

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