- 主日礼拝説教:2024年03月24日(日)
- 聖書箇所:マタイの福音書25章14~30節
- 説教題:良い忠実なしもべ
説教音声
暗証聖句
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
ペテロの手紙第一2章24節
説教要旨
神さまが預けて下さっている「タラント」を感謝しよう
天の御国、すなわち神さまの御支配の中に生きる人生とは、主人が旅に出るにあたり、自分のしもべたちに財産を預けるようなものである、とイエスさまは言われました。しもべたちにはすでにそれぞれに能力の違いがあります。その違いに従って、まるでその能力を測るかのように財産が預けられました。財産は「タラント」という貨幣で預けられました。今日の「タレント」の語源となった言葉です。預けられたしもべは、すぐに出て行き商売をし倍に増やした者、地に穴を掘って埋めてしまった者、さまざまです。かなりの時がたって主人が帰ってきました。主人はしもべたちと清算をします。預けられたものを活用し倍に増やした者には、お褒めの言葉が語られました。地に埋めて活用しなかった者には厳しいまでのさばきの言葉が語られました。
主の再臨を、私たちはどのような姿勢で待ち望むのか。主の再臨を待ち望む者は、共に生きる者たちへの愛の配慮に生きる(24章45節)、主の恵みの油を絶やさない(25章1~13節)と学びました。それに続いてここでは、それぞれが預けられたものに忠実に生きることが主の再臨を待ち望む者の姿勢である、と語られました。
それぞれの「能力」に応じて「タラント」を「預けて」下さる。能力を預けてくださるのではありません。賜物とは、能力のことではなく、その能力に対して預けられているもののことです。能力も、そしてそれに対して預けられたタラントにも違いがあるとイエスさまは語られました。なぜ違いがあるのか。不公平ではないか。そういった疑問に聖書は答えようとしません。聖書はその違いという現実を受け止めつつ、その違いの中でどう生きるのかを私たちに問います。
5タラント預けられたしもべは、自分には5タラント分の能力があると喜んだのか、それともそんなに買いかぶってもらっては困る、畏れ多いことだと思ったのか。「するとすぐに・・・」(15)とありますから、預かったものをとにかく感謝して、それを生かそうとしたのです。2タラント預けられたしもべも同様にしました。2タラントだから少ないとひねくれることはありませんでした。一方、1タラント預けられたものは、地面の中に埋めてしまいました。旅から帰った主人に対してこのしもべが語る言葉には、主人への恐れはあるものの主人への愛や信頼はなかったようです。
私たちにはさまざまな違いがあるのです。その意味を問いたくなります。しかし少ないからといってひねくれていても人生は開かれません。多いからといっていい気になって見ても、それを生かさないならば同じです。神さまが、私たちを信頼して預けてくださったのです。しもべである私たちは、神さまへの信頼を確かにして、預けられた分が多かろうが少なかろうが、それを私の分と受け止め、主に対して忠実に生きていきたいと思います。
1タラントとは、当時の貨幣単位で、1日の労働賃金の6千倍である、と説明がありました。1日の労働賃金を5千円として換算するなら、3千万円、1万円と換算するなら6千万円です。1タラントは決して少ない金額ではありません。それぞれに預けられているタラントは決して少なくないのです。静かに心をしずめて、神さまが備えていてくださるもの、預けていてくださるものを思いめぐらせましょう。
冒険の始まり~主への信頼と忠実さに生きよう
それぞれに違いがあるものの、同様に倍にした二人のしもべには、主人からお褒めの言葉を頂きました。「良い忠実なしもべだ」。二人への言葉はまったく同じでした。10タラントを差し出した者にも、4タラントを差し出した者にも、主人は同じ言葉をもってねぎらって下さり、ともに喜んで下さったのです。
能力に違いがあることの理由は分かりません。しかし神さまがそうなさったことですから、何らかの良い意味があるに違いありません。違いの意味を問うことは脇に置き、とにかく預けられているものに、神さまの恵みの御手を発見し、共に生きる人びとと分かちあいたいと思います。5タラントということであれば、もう5タラントでよいのです。2タラントであれば、同様にもう2タラントでよいのです。1タラントであれば、同じく1タラントでよかったのです。神さまは同様に喜んでくださいます。良い忠実なしもべであると喜んでくださるのです。
「忠実」という言葉は、信頼できる者、信用できる者である、という意味です。神さまは私たちを信頼して、それぞれの能力に応じて、賜物を預けていてくださったのです。私たちは、その主の信頼を受け止めつつ、主を信頼して、預けられた分に応じて生きて行きたいと思います。
5タラントのしもべも、2タラントのしもべも、この主人からの信頼を、驚きをもって、また感謝をもって受け止めたのだと思います。だからこそ「すぐに」(15)出て行って、それを生かす道を模索したのだと思います。
神さまから信頼していただいている。その喜びを確かにする。そうして預けられたものを生かしていく。自分のために、そして人びとのために生かしていこうとする。リスクがあるかもしれない。失敗するかもしれない。しかし神さまが信頼して預けて下さっている。預けられたものによって生み出されるものは、目に見えないものかもしれない。この世の価値観からすると、取るに足りないもののように見えるかもしれない。しかし主への愛と信頼をもって、預けられたものに素直に生きていくことを、主はほんとうにお喜びくださるのです。
神さまから預けられたものに違いがある、ということは、自分にだけ預けられたものである、ということでしょう。その自分にだけ預けられたものを生かしていくことは、自分にしか生きることのできない道に生きることでしょう。神さまを信じて生きる、ということは、本当に自分自身を生きるということでもあるのです。神さまがともにいて下さるとの全き平安の中に、自分らしく生きること。それはまさに私にしか生きることのできない冒険の旅に出発することです。
祈り
互いの違いに高慢になったりひねくれたりと、どこまでも自分中心に生きようとする私たちを赦してください。あなたが預けて下さっている数え切れない恵みに感謝をおささげします。その一つひとつにあなたからの信頼を発見し、自分らしく、喜びと感謝をもって新しい一週間に出発します。あなたの導きの御手を見失うことがないように守ってください。