主日礼拝説教・音声と要旨 2024年4月28日(日)

  • 主日礼拝説教:2024年04月28日(日)
  • 聖書箇所:マタイの福音書25章31~46
  • 説教題:永遠のいのち

暗証聖句

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。

マタイの福音書25章40節b

説教音声

説教要旨

わたしの父に祝福された人たち

 世の終わりについて弟子たちが問いました(24章~)。その問いに対してイエスさまは答えてこられました。それをまとめるかのように一つのたとえ話が語られます。この後に続く26章からはいよいよ十字架への道が進んでいきます。
 世の終わりには、主イエスさまご自身が審判者となって、すべての人を裁かれます。羊とやぎをより分けるように、それぞれの人生における行為に応じて裁くと主は言われました。「最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と言われ祝福を語り、逆に「最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ」と言われ裁きを語られました。
 最も小さい者だからと言って見過ごしにせず愛のわざを為した人びとに向かって、主は語られます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい」(34)。
 「さあ、わたしの父に祝福された人たち」。愛のわざを行ったから祝福を与えよう、と語っておられるのではありません。愛のわざを行った人びとに向かって「わたしの父に祝福された人たち」と呼びかけておられます。善行を行うことができた、愛に生きることができた、そのような歩みをした人びとに、その歩みを振り返りつつ、祝福された人たちよ、と呼びかけておられるのです。愛のわざに生きているということは、それ自体祝福の歩みなのだ、と言われたのです。
 逆に、愛のわざに生きることのなかった人びとに向かって「のろわれた者ども」と言われました。愛のわざを行わなかったから、こののちのろわれるのだ、と言われたのではなく、愛のわざに生きることがなかったという人生そのものがすでにのろわれたものなのだ、と言われたのです。
 ここで愛のわざに生きた人びと、祝福された人びとのことを「正しい人たち」と呼びかけておられます(37、46節)。「正しい人」とは「義人」(ローマ3・10)という言葉です。彼らは自分が善行を為したことを知りません。善行に生きたから義人なのではありません。自分の為した愛のわざを数えていないのです。
 祝福にあずかるために自分の善行を積み上げ、それを数えているということは、決して幸いなことではありません。自分を忘れるほどに、愛に生きているということ、それ自体がすでに神さまの祝福の中にあるのです。

最も小さい者たちの一人にしたことを

 自分が主に対して愛のわざを行ったことの自覚が全くない「正しい人」に向かって、主は「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と言われました。
 正しい人は、自らの善行、愛のわざが、愛のわざであることを知りません。その正しい人に向かって、「最も小さい者たちの一人」への愛の行為は、神さまご自身に為したことなのだ、と言われたのです。
 「最も小さい者たち」とは、世から見過ごされてしまうような取るに足りない存在のことです。そのような小さい者たちに対して為した行為は、ほんの些細な、小さい行為でしょう。愛のわざなどということさえできないような小さな愛の行動。主は、そのような最も小さい者たちに対してなした小さな愛のわざを、わたしに対して為したことなのだ、と語ってくださったのです。
 愛のわざはどんなに些細なことであっても、神さまはそれを大切なこととして受け止めていてくださるのです。
 私たちはどのような愛のわざに生きることができるのか。歴史に残るような、また多くの人が感心するような善行に生きることができるのか。世間が振り返るような施しをすることができるのか。できることならばそのように生きてみたい、とも思いますが、結局は日々の生活に追われてしまうのが現実ではないか。主はそのような私たちに、頑張って主に対してなすように、ひたすら愛のわざに生きよと、言われるのだろうか。
 主は、最も小さい者に対してなしたことを、わたしに対して為したことなのだ、と言われたのです。自分自身も忘れてしまうほどに小さい行為も、神さまは大切に見ていてくださいます。
 朝起きて家族に挨拶をする。食事を共にしながら、おいしいね、という。電車やバスで高齢者や必要とする人に席をゆずる、暗い顔をしている人に明るく声をかける、否定的なことを言いそうなときに、その言葉をのんで積極的なことをいう。とても小さいことです。しかし私たちの主は、それらはわたしに対してしているのだよ、わたしはそのことを忘れない。そのような小さなわざに生きることができることこそ、祝福されている者の生き方なのだ。そのような祝福に生きることができるために、すべての人がそのような祝福の中に歩むことができるために、わたしは十字架にかかるのだ、と主は言われているのだと思います。

祈り

 自分でも忘れてしまうようなまことに小さなわざに、あなたは、御目をとめてくださいます。そのような小さなわざも、わたしにしたのだ、と語ってくださいます。勇気をもって、日々を生きることができるように、まことの幸いの中に生かされていることを見失うことがないように、信仰を与えて下さい。

説教20240428-01
説教20240428-02


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