「文書にして生命の寓する者有りと雖も、苟も其人に非ざれば其文解すべかず、善心以て之を解する者と雖も己の程度を越えて悟る能はず、故に真面目にして之を誤解する者有り。蓋し其自己有限の誤る所、其罪に非ざるなり。但以て人に伝ふるの道に於て其雍塞を来すを免がれず。故に生命は必ず有神の無我を貴む。」
新井奥邃、『聖言』、220
「文書にいのちがやどっている者があるといえども、もしもその文章を書いた本人でないならば、その文は解らない。善の心をもってこれを理解しようとする者であっても、自分自身の能力の程度をこえて理解することは出来ない。よって真剣な態度でこれを誤解する者がいる。考えてみると、これは自分自身の限界が誤解を生み出しているということだから、罪ではない。ただしこれを人に伝えることにおいては、その道をふさいでしまうことになる。これをのがれることは出来ない。よっていのちは必ず神の存在を確かにし自らを無にすることを大切にする。」
書かれたもの、この場合聖書のことだと思いますが、そこにいのちがやどっているのです。しかしそれを人間が理解しようとする時に、書いた本人(この場合神さま)ではないので、その意味を完全に知ることは出来ません。また人間には限界があるので、どうしても間違った解釈が起こってきます。間違った解釈は人間の限界が生み出していることなので、それ自体は罪とは言えないけれども、それを人びとに伝道しようとするところで、どうしてもその道をふさいでしまうでしょう。ですから聖書からいのちをくみ取り、それを人々に伝えようとするならば、そこには神さまを畏れ、自らを無にしていく信仰が大切なのです。
信仰を持たないで聖書を理解しようとしても決して理解することは出来ないでしょう。しかし神さまを貴び、自らへりくだって聖書を読むならば、鮮やかにいのちにあふれる者とならせていただけます。
〔聖書の個所〕
また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
(第2テモテ3章15~17節)