「野に往きて独り立つ。其覚や是れ何ぞ、始めて醒むる時真人に向って醒む。其心の伸ぶる時将(は)た如何。其始めて伸ぶるや是の人に向って伸ぶ。高きに登るも亦如此し。真人の精気を感ずるより始まる。是の気の触るる所是の人あり。故に我が独りなる所は独りに非ざるなり。友あり、父あり、一族通ず。姉妹兄弟清風香(かん)ばし、眼は其心に在りて、気は其息に在り。」
新井奥邃、『聖言』、166
「野に往って独り立つ。その感覚、これはなんだろう。新しい覚醒の時、まことの人に向って覚醒する。その心の伸展する時、いったいどういうことであろう。その新しい伸展、その人に向って伸展する。高いところに登ることもまたこのようなものである。まことの人の精気を感じるやいなや始まる。この気の触れるところ、その人の存在がある。よって私が独りでいる所は、もはや独りではない。友がいる、父がいる、一族に結びつく。姉妹兄弟にさわやかな風吹き、その香りが良い、眼はその心にあって、気はその息にある。」
人里を離れて、独り野に立つと、感覚が研ぎ澄まされ、真の自分自身に目覚めることがあります。今まで届かなかったところに手が届くような感じで、独りであるのも関わらず、むしろ愛する者と一体になっているような感じになります。そうしてあらためて愛する心、理解する心が与えられるのです。また独りで生きているのではなく、父祖から綿々とつながる中に生かされていること、また家族の中に生かされていることなどを実感します。
独り神さまの前に立つ時を大切にすることによって、人びとの中に生きることが豊かになっていきます。独りでいられること、孤独を楽しむ人こそ、人びとの中に平和と平安をもっていることができる人であり、真に愛することのできる人です。
独りでいる時間を大切にしましょう。
〔聖書の個所〕
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
(マタイ14章22~23節)