「闇夜屋漏(おくろう)に座すれば光明なきが如し。安(いずく)んぞ知らん光明の旦昼(たんちゅう)に勝る者其間にあるなきを。真人よりするの光りは、先ず人の内心を照す。是れ智となり、美となり、昇りて真人の至善に還る。夫れ真人は元始なり。大終なり。宇宙の父母たり。」
新井奥邃、『聖言』、167
「暗やみの中にある家の最も奥まったところに座ると、光明が全くないようである。光明のある昼間よりも勝っている者が、その中にいないわけではないことをどうして知ることができるであろうか。真の人においての光りは、まず人の内心を照らす。それが智となり、美となり、さらに昇華して真人の善に至る。真人はもっとも始めであり、最終的な終わりである。宇宙の父母だ。」
「屋漏」は家の最も奥まったところと考えましたが、神さまのおられるところという意味も含んでいるのかもしれません。
「真人」の光明は、まずその人の心のなかを照らします。環境が暗やみであっても、その心のなかに光が照らされ始めれば、そこに新しい始まりがあります。それがまことの光です。それが英知となり、美となります。そうして真人のもつまことの善に至るのです。真人の光に照らされ、その光に導かれ、そうして真人になるのです。真人は、始めであり終わりです。すべての根源であり完成です。
こう考えると真人とはキリストそのものを指しているということでしょうか。キリストの光に照らされるならば、どんなに暗やみの中にあったとしても、キリストに至る道に歩み始めることができます。
〔聖書の個所〕
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネ1章4~5節)
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
(第1ヨハネ1章5~8節)