「祈禱の真は、神息を息するに在り。基督の息なり。之を得て内より息せざれば、誠に得て己(おのれ)に立つべからず。夫れ誠とは、世の所謂誠に非ざるなり。世の所謂誠とは、自然の気而已(のみ)矣。真の誠は自然に通ずと雖も、超自然なり。故に世の生命と反す。是れ生者に生にして、死者に死となる。百邪退治の道、此の誠に由らずして能く行はるるあらざるなり。」
新井奥邃、『聖言』、170
「祈りの真実は、神の息を呼吸することにある。キリストの息である。これを体得して内面より呼吸をしないならば、誠に自分自身に自立することができない。ここでの誠とは、世で言ういわゆる誠ではない。世でいういわゆる誠とは、自然の気だけである。本当の誠とは自然に通じてはいるが、それを超えた自然である。よって世の生命と相容れない。これは、生者にとっては生となり、死者にとっては死となる。百のよこしまなものを退治する道は、この誠によらないでは十分に行うことはできない。」
呼吸は生命の維持に欠かせない活動です。日本語の生命活動をするという意味での「生き」と呼吸をするという意味での「息」は、同じ「いき」という言葉で表現されます。聖書も此れによく似ていて、創世記2章を見ると、神さまから息を吹きかけられて、人間は生きるものになったと書かれています。神さまに向かって呼吸をして、人間ははじめて生きるものとなるのです。
神さまへの呼吸とは「祈り」のことです。人間は祈りによって神さまと呼吸をするのです。神さまとの呼吸をして人間は生きるものとなり、そうして人間は「自立」します。
自立とは、ただ経済的、精神的なことだけではなく、神さまの前にしっかりと立つということでしょう。キリストを信じてまことのいのち、永遠のいのちを持つ者は、この祈りにおいて益々生きるものとなります。しかしそのいのちをもっていない者は、肉体的な生命活動を維持するための呼吸はしているかもしれませんが、神さまの前に自立していないので死んでいるのと同じことです。この自立をして、人間はさまざまな悪の誘惑に対して勝利していくことができます。
人間は祈りによって真実に生きる者となり、人生の勝利者となるのです。
〔聖書の個所〕
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
(エペソ6章18節)
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
(第一ペテロ4章7節)