カテゴリー: 新井奥邃

  • 「此の世の者は、其我に生れて其我に長じ、而して又其我に没す。其我の外には何物も無きが如し。其血曽て無我と相関するなし。彼既に無我と相関するなければ、無我を感知する能はざるは固より其所なり。吾が所謂無我とは、有神無我の謂ひなり。」

    「此の世の者は、其我に生れて其我に長じ、而して又其我に没す。其我の外には何物も無きが如し。其血曽て無我と相関するなし。彼既に無我と相関するなければ、無我を感知する能はざるは固より其所なり。吾が所謂無我とは、有神無我の謂ひなり。」

    新井奥邃、『聖言』、171

    「この世の者は、自分自身に生まれ、自分自身として成長し、そうしてまた自分自身に死ぬ。自分自身のほかには何もないのと同じである。その血は決して無我と互いに関係することはない。無我と互いに関係することがないならば、無我を感じ理解することは決してできないことも当然のことである。われわれのいわゆる無我とは、有神無我ということである。」

     無我の境地といわれます。信仰はそういう状態をどこか求めていきます。しかし人間は結局のところ、誕生も成長も死も自分自身から切り離して存在しているのではありません。ですからいたずらに自分を無にするなどと考えるならば、自分を失ってしまうか、自分を滅ぼしてしまうことになりかねません。
     聖書は、神さまの前に立ってはじめて人間は人間となると語ります。ですから神さまがおられるということがきちんと理解されて、その神さまの前でようやく無我の境地に立つことができるのです。
     我を健やかに失っていくことこそ、真実に我に生きる道なのです。それは神さまを知る者でしかできない生き方です。

    〔聖書の個所〕

    自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
    (ルカ17章33節)